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フィリピンに行くまでは、日本の大手メディアの支局がマニラにずらっと並んでいるものだと思っていた。しかし、実際にマニラ支局があるのは、NHKと日経、共同通信の3社だけで、朝日はハノイに移したとのことであった。共同通信は、誰もいない所にも駐在員を置くので、実質2社しかないことになる。

一昔前に、フィリピンでは政変が頻発したが、その当時は多くのメディアがマニラに居を構えていた。しかし、政情が安定してくるとニュース価値があまりなくなったのか、経費削減ということでドンドン撤退してしまったようである。

日経の記者に話を聞くと、「フィリピンは日本に“一番近い友好国”であり、勤勉な1億人の国民がおり、人口減少国日本にとって大事にするべき国である」という意見だった。

企業活動に重きを置く日経の記者らしい見立てで、事件を追うことに価値を見出す一般紙との違いなのだろう。滞在期間中、フィリピンでの連日トップニュースは、ミンダナオで発生したモロ民族戦線による人質問題だったが、日本では最初に報じられただけで、その後のフォローはほとんどなかったように思う。

一昔前の、政変を追いかけるために特派員を常駐させていた時代なら、もう少し取り上げ方が違ったと思う。

今回フィリピンに出かけたのは、フィリピン残留孤児についてのためだった。戦前多くの日本人がフィリピンに渡り、現地の女性と結婚した。それが戦争により、現地で日本軍に徴兵されて戦死したり、日本に強制送還されたりして、妻と子どもは取り残されてしまった。

沖縄と同様に地上戦が展開されたことや、日本軍の残虐行為により対日感情は悪化し、残された妻子は“ハポン”と蔑まされ、山奥で逃げるような生活をしていた人たちだった。中国残留孤児については、国策ということもあって日本政府は手をさしのばしたのだが、フィリピン残留孤児については混血ということもあるのか、冷淡な態度になっている。

現地でマニラ新聞という日本語新聞を読んでいると、新日系人という言葉に出会った。2種類あるようで、“フィリピン人ダンサー”として来日して身ごもったケースと、フィリピンで日本人男性との間に子をなしたケースである。いずれも男性に捨てられ、母子家庭であえいでいる人々である。

戦前のケースは婚姻の結果ではあるが、新日系人の場合は婚外子がほとんどのこと。無責任な日本人に心を痛めるが、日本で報道されたのを見たことはない。現地に特派員がいれば報道されるのだが、経済報道の日経と、マニラ支局で他の国もテリトリーとするNHKの2社しかいないのでは、取り上げられるのは難しいのだろう。

マニラ新聞のウエブサイトでチェックするしかないのだろうか。



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フィリピンの話の続きを。フィリピンに出かける直前に、ミンダナオ島で、反政府勢力が人質を200人とって、立てこもりをした事件があった。これだけではなく、銃の所持が認められているため強盗団が各地で起こり、治安が悪いようである。

帰国する日に、現地の日本語新聞を読んでいると、ジムニーや路線バスが強盗団に襲われたというニュースが載っていた。ジムニーというのは、フィリピンの人の足とも言えるもので、気軽に利用できる公共交通機関として、走り回っているのだが、これが強盗の被害にあうのだからたまったものではない。

治安の悪さを反映してか、ちょっとしたビルや商業施設には必ず空港にあるようなセキュリティ・チェックの設備がある。私の泊まったホテルでは、車が入ろうとすると車の下を棒の先に鏡がついたもので必ずチェックされるし、荷物を下ろすとシェパードによる“匂い検査”も受けるほどだ。バンコクのホテルでもセキュリティチェックを出入りの度に受けたが、車のチェックや犬によるものはなかった。

スターバックスに入ると、警官のような制服を着たガードマンが入り口付近にたたずんでいた。セブンイレブン(とにかくあちこちにあり目立った)にも、ガードマンがいる店もあるほどで、銀行の前には小銃を持った屈強な警備員があたりを見回している。一瞬写真を撮ろうとしたが、銃を持った人物の前では余計なことをするなという鉄則を想い出して断念した。

フィリピンでは、セキュリティ産業が重要なセクターになっているような感じで、セキュリティ強化が9.11以来の世界の潮流だとすれば、東京オリンピックを控えて日本でも建物の出入りする度にセキュリティチェックを受けるようになるのかもしれない。

フィリピンではルソン島の中部にあるバギオという町にも3日間滞在した。バギオはフィリピンで4番目の都市なのだが、鉄道や飛行場はない。マニラからは自動車を利用するしかないのだが、道路事情が悪く300キロを7時間ほどかかる行程になった。成田→マニラは4時間ちょっとなのに、この時間は耐え難かった。

バギオは1500mの高地にあり、年間を通じて最高気温が26度を超えることはなく、滞在した3日間の最高気温も23度、最低気温が16度というのが続いていた(スマホのアプリでいる場所の天気と気温がわかることに今回初めて気がついた)。

こんな気象条件だから、アメリカの統治時代に総督(と呼ぶかどうかわからないが)が目をつけ、夏(3~5月の乾季)の首都とするために開発された街で、今でも大統領の夏の官邸が置かれている。

避暑地として発展し、宿泊したホテルは1泊2000ペソ(5400円)だったが、ハイシーズンには4000ペソになるとのことだった。

ホテルの目の前に大きな公園があり、沢山の人が散歩をしていたが、マニラのギスギスした顔つきとは違い、穏やかな表情で散歩を楽しんでいるのが見て取れた。ホテルでもセキュリティチェックがなかったのをはじめとして、街中にも警備員の姿を見かけることはなく、治安のよい事が人々の表情にも現れているのだと思う。

フィリピンの田舎には日本人が行ってはいけないとされる所が多いのだが、マニラのような大都市でも同じようなものである。バギオは25万人の人口だそうだが、小さすぎてもダメ、大きすぎてもダメということで、人口25万人というのは都市として目が届きやすいちょうど良いサイズなのかもしれない。

フィリピンについてはもう少し気がついたことがあるので、明日もう1回書くつもりだ。



昨日の夜フィリピンから帰国した。日本は台風被害が広い地域に及んだようだが、台風一過の秋晴れが迎えてくれた。一方、昨日になってフィリピン東方に台風が発生し、進路が西寄りに進むため、ルソン島が直撃されそうで、台風と台風の間を縫うようにしてこの何日かを過ごしたことになる。

マニラには4泊したのだが、毎日雨がどこかの時間にあり、日本の梅雨時のような気候だった。それなのに道路の水はけが悪く、少しの雨でも道路が水浸しになり、自動車の渋滞に輪をかけることになる。台風の大雨にでも合おうものなら、身動きが取れなくなったと思う。

一昨年は中国の広州、昨年はタイのバンコクと3年続けてアジアの大都市を訪れたことになるが、マニラは上記2都市に比べて1ランク落ちる印象がした。道路整備が人口増大に追い付かず、公共交通機関が貧弱なため慢性的な渋滞となっているため、「都市としての生産性」が著しく低いように感じられた。

オリンピックの開催などとても考えられないような都市インフラなのだが、バンコクや広州は最近アジア大会が開かれた場所である事に気がついた。アジア大会レベルの開催でも、都市インフラの整備が進むのだが、マニラで開かれたという記憶はなかった。

フィリピンの人に尋ねても、アジア大会開催経験を知っている人は誰もいなかった。調べてみると、1953年の第2回大会の開催地であり、60年前の事であった。誰も知らないはずだ。

当時の大会は、8つの競技に18カ国1200人が参加したとある。現在は40競技、45カ国、9500人の規模でこの数回は開催されており、現在でもマニラは昔の8競技、1200人の規模にしか耐えられない都市インフラであるように感じられた。

マニラで一番いやだったのは、ホテルの外を一歩歩き出すと、たちまち客引きに声をかけられることだった。夜ならともかく、日本人と見ると朝の散歩でも声をかけてくる輩がいるのだ。

その理由が一昨日の夜わかった。ホテルの部屋を出てエレベータホールに向かうと、何やら下卑た日本語が聞こえてきた。私と同年輩の2人の男性が、若いフィリピン人女性5~6人を連れて部屋から出てきたのと鉢合わせをしてしまったのだ。

さらにエレベータの途中階でも同じような連中に遭遇してしまった。言っては失礼なのだが、どうみても日本では若い女の子に相手にされないような、風体、容姿であり、フィリピンに“救いを求めて”やってきたのだろう。

彼らと同類と見られて、しきりに声をかけられたのだとしたら…

これから大阪に出かけるので、フィリピンの話の続きは明日か明後日に。
ようやく秋の到来を迎えたようで、エアコンのお世話になることなく就寝することができるようになった。来週の火曜日から再来週の火曜日までフィリピンに出かけることになっている。17日に帰国して翌日の18日には大阪、20日には青森へ出かけるというタイトなスケジュールになっている。

大阪は日帰りにするつもりなのだが、夕方の仕事なので宿泊をしなければならないかもしれない。そうなると21日まで出ずっぱりになりそうで、ブログの更新がかなり滞ることになる。今年の大晦日か、来年の元旦に2000回目の更新をするという目標の達成がかなり厳しくなりそうだ。

ハードスケジュールに老体が耐えられるかどうかは、気候条件と食べ物にかかっていると思う。2年前に中国の南京と広州に出かけた時は、暑さにかなりのダメージを受けてしまった。夜の9時にホテルの前のビルの温度表示を観ると、39度が掲示されているほどの暑さで、ベルトとズボンをだめにしてしまった。

暑さのせいで、革の成分が溶け出し、ズボンに付着してしまったためで、ズボンについたベルトの跡はクリーニングしてもどうにもならず、ベルトもべたつきがいくら乾燥させてもとれなくなってしまった。救いは、「食は広州にあり」という格言通りだったため、元気に過ごすことができた。

フィリピンではマニラと北部にあるバギオで3日ずつ滞在する予定になっている。ネットで天気予報を調べてみると、マニラは滞在中ずっと雨の予報になっており、気温は32度前後になっている。気温はそれほどでもないが、湿度が80%以上ということで、ジメジメムシムシを覚悟しなければならない。

バギオは、マニラからバスで5時間ほど離れた場所で、植民地時代に夏場に行政機関が一時おかれたとのこと。行政機関の避暑地というのは初耳だが、気候は恵まれているということなのだろう。最高気温が26度を超えることはないという嬉しい情報も見つけた。

マニラの3日だけを辛抱できれば、気候によるダメージはあまりなさそうだ。問題は食べ物だが、フィリピン料理には全くなじみがなく、どんな食事になるのか全く想像がつかない。

昨年タイに行った時は、それほど苦にはならなかった。中華料理の影響を受けた料理が多かったためだが、フィリピンにも中華の香りが少しでもあればよいのだが。



昔から地震、雷、火事、親父というのが怖い物の定番とされているのだが、昨今では親父の権威低下が著しく、地震や雷と肩を並べるにはかなり役不足だ。替わりに、竜巻がノミネートされてもよさそうだ。「地震、雷、火事、竜巻」と呼びたい。

昨日の、埼玉と千葉の県境で起きた竜巻は、ピンポイントではあるが直撃を受けたところでは家屋が倒壊したり、トラックが横転するなど凄まじい破壊力を見せつけた。けが人も多数出たようだが、死亡者が出なかったのは幸いだった。

甲子園の高校野球を観ている時に、竜巻注意報のテロップがこの夏は何度も流されていた。注意報が出たからといって、特別気にかけることはなかったのだが、これからは敏感になるのかもしれない。といっても、特別なことができるわけでもなく、じっとしているしかないのだが。

昨日の2時過ぎに外を歩いていたのだが、北東の空がいつもと違う様子に気がついた。この方向は、竜巻が起こった場所なのだが、夕方ニュースを観て後からわかったことだ。

この夏は、この方向に見事な真っ白い入道雲を見かけ、それ以来外出する時はいつも北東方向の空に目をやるのが習慣になってしまった。昨日も何気なくそちらを観ると、地平線に近い部分は雲の切れ間があり、その上に濃度の違う雲が何層かに重なり合っているように見えた。バームクーヘンのようで、地上に近い所ほど濃い色で、上に行くほど薄くなっていた。

これまで見たことがない風景で、さっさと所要を済ませて帰宅することにした。その後は、FM放送の音楽を聞いていたので、夕方テレビを観るまで竜巻の事を知らなかったのだが、後から考えると、雲の異変が竜巻の発生を知らせていたのだと思う。

遠くの竜巻がわかったからといって、どうということはないのだが、これから外出する度に空を見上げて観察するのが習慣になりそうな気がする。


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