社長のブログです
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昨日サクラの満開が発表された。入学式のころには葉桜になっており、遅い卒業式ならサクラの下での記念写真と、いつもとは違う光景になりそうだ。明日は天気が悪く、気温も下がるとの予報が出ているため、今日はどこも花見客で大混雑になるだろう。
しかし混雑は覚悟の上で、今日は娘と花見に行くことにした。どこのサクラを愛でるのか考えたが、上野などの花見の名所ではなく、皇居のサクラをじっくり鑑賞することにした。首都高に乗っていると、この時期の楽しみは千鳥が淵の、お堀に向かって咲くサクラである。しかし、運転しているとじっくり眺めるわけにはいかず、今日は歩きながらゆっくり鑑賞したいと思う。1周5キロと散策には手ごろな距離であり、あちこち寄り道しながら楽しむつもりだ。 今日でこのブログは1800回を超えた。年初めには少しペースが落ちていたが、最近はようやく週6回は掲載できるペースになってきた。残り9カ月で週6回のペースを守れれば、今年中には何とか2000回に到達しそうだ。 PR
BSの海外ニュースを見ていると、相変わらず新しいローマ法王の動向がトップニュースとして流れている。ヨーロッパの人にとって、それだけローマ法王の存在が大きいということなのだろうが、日本語の通訳では呼び名が変わっている。
コンクラーベで白い煙が上がった直後のニュースでは、「フランチェスコ1世」と呼ばれていたように思うのだが、翌日から「フランシスコ1世」というように変わっている。法王の意思を示すものとして、自分を何と名乗るのか注目されていただけに、そんな大事な名前をすぐに改名するものとは思われず、“日本語の読み方”を変えたものと思われる。 シーザーとカエサルのように同じ人物でも、言語によって読み方は異なることはよくあることだ。フランチェスコと読むかフランシスコと読むのかも、言語の違いだと思うのだが、日本のカトリック教会の主流派が採用している呼び方に統一したものと思われる。何語が主流なのか興味あるところだが、スペイン語ではないかと推測している。 聖フランシスコは、サンフランシスコになる。今日から行われるWBCの決戦の場所である。カリフォルニアはアメリカがメキシコから分捕った地域であり、地名にはメキシコ時代から引き継いだものが多く、サンフランシスコもその一つであることからスペイン語だと推測されるのだが、「フランチェスコ(フランチェスカだったかもしれない)の鐘が鳴る」という懐メロの響きの方が私には心地よさある。フランチェスコというのは何語の読み方なのか気になるところではある。 今日もこのところ恒例となっている爆弾低気圧の通過で、今朝から低気圧に向かってゴーゴーと南の強風が吹いている。外出するには、強風が吹き抜けるバイパスを渡らないといけないので自粛し、新法王ゆかりの地での準決勝をじっくり観戦することにする。
震災から2周年ということで、先週あたりからメディアでは追悼記事・番組がぐっと増え、嫌でも当時の事を想い出させられた。私の好きな番組であるNHKスペシャルでも、震災関連の番組がこの2週間ほどの間に、4本以上の番組が放映されたように思う。
昨夜は進まない復興をテーマに、名取市の閖上地区もそのひとつに取り上げられていた。ここは昨年の夏に仙台を仕事で訪れた時に、被災地の現状を観るために訪ねた場所である。震災当日に津波が襲来した時に私にとって最もショッキングな映像は、4時少し前にヘリコプターから中継された仙台市若林区の畑やビニールハウスが津波に飲み込まれるシーンであった。 閖上地区は、この若林区と名取川をはさんだ地域であり、同じようなダメージを受けていた。タクシーの運転手の話だと、震災前には閖上地区には9千人の人が住んでいたということだったが、家屋はほとんど流され、かろうじて残った建物にも誰も住んでいない廃墟というか、家の土台しか残っていない荒野になってしまった。 その時に印象的だったのは、ぽつんと残った6~7mほどの“山”だった。6~7mでも平坦な所にポツンとありいやでも目につく。遠くから見た時は瓦礫の山かと思ったが、頂上に木が一本伸びており瓦礫の山ではないということはすぐに分かった。 「日和山」と名付けられており、明治三陸大津波で津波がこの高さまで来たということのモニュメントで、大正時代に作られたものである。せっかく先人が津波の恐ろしさを残してくれたのに、閖上地区では愚かにも麓のレベルでの開発が進み、今回の津波で全滅してしまったのである。 その閖上地区では、防潮堤を設け少しかさ上げしてもう一度街づくりをするという事業計画はできたが、住民の意見が分かれ事業化ができないというのが番組の内容だった。日和山の意味が少しもわかっていないような議論が見られ、残念な気分になってしまった。 もう一つNHKスペシャルの日曜に放映された、「メルトダウン」と題した番組については考えさせられた。原発事故発生当時「FUKUSHIMA50」という言葉が聞かれた。外国のメディアが、原発事故に現場で懸命に対応する人々を称えて生まれた言葉で、実際には何千人もの人が勇敢な戦いをしていた。 事故当時は、いずれ「FUKUSHIMA50」をテーマにしたNHKスペシャルが放映されることに期待し、そのような意味の事をこのブログでも書いた記憶がある。今年になって、「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の500日」(門田隆将著 PHP研究所)という本を読み、「カウントダウン・メルトダウン」(船橋洋一著 文芸春秋)を現在読んでいる。 いずれも事故対応について書かれた本であるが、特に前者はドキュメンタリータッチで描かれており、一気に読み終えてしまった(後者は読みにくく中々進まないのだが)。感動を覚えてほめたたえたいと思ったのだが、一昨日のNHKスペシャルはその感動に水を差された感じの内容だったと思う。 現場での懸命な対応だったが、後から振り返るとメルトダウンが防げたかもしれないという内容だったからだ。原発事故について、政府・国会・民間と3つの事故調査委員会が検証しているのだが、番組ではいずれも検証が不十分であることを指摘していた。例によって酔っぱらいながらなので、うろ覚えの面はあるが消防車を活用した注水が他のルートへ漏れていたというのはどの検証にも指摘されていなかったという内容だったと思う。 有識者が集まった事故調の内容を不十分と指摘したのは、メディアとしての見識を示したものではないだろうか。有識者の権威に負けず、何事にも批判的に物事を観る態度がメディアには必要であり、勇気ある提言だったと思う。 「死の淵を見た男」を感動とともに一気に読み終えてしまった私は、情緒的すぎるように思うのだが…
今朝6時の気温は10度あり、アメダスの画面では房総半島の先っぽでは18度もある。昨日は夏日の所もあり、今日も同じようになりそうだと思えば、北海道では吹雪とのことで半袖姿で雪のニュースを眺めるというのはめったにない経験だ。
花粉症の症状が一層進み、眼をこすりすぎて少し痛みを感じるほどだ。外出を控えていたのだが、室温が上がりすぎて窓を開けてしまったのがいけなかったようだ。昨日の季節外れの暖かさで花粉の飛散量が急増し、“悲惨”なことになってしまった。 この花粉に混じって、厄介者のPM2.5も襲いかかってくる心配もある。私がこのPM2.5という言葉を知ったのは9年前の事だ。国際的な環境問題を扱う研究機関の仕事をすることになり、研究テーマについてガイダンスを受け、その中で「中国におけるPM2.5問題」というテーマがあげられていたからだ。 うろ覚えなのだがその研究所では研究計画を作るために、2020年までの15年という長期スパンで予想される様々な環境問題をチャート化していた。PM2.5だけでなく10個くらいのテーマがあげられ、それへの対応策や派生する研究テーマをどの時点から行うかの長期的な計画を立てていたのである。 その中で2015年くらいには中国でPM2.5について大きな問題が生じるということで、05年当時にすでにそれへの対応として中国への啓発活動の計画が列挙されていたように思う。今になって思えば、中国という地域とその時期について明示していたことは、炯眼と言えるのではないだろうか。チャートにはPM2.5だけでなく色々な分野での計画が示されていたが、PM2.5の事だけだ記憶に残っているのは、なじみのない言葉であり担当者に説明を求めたため、よく覚えているのである。 その時に感じたことは、研究機関(シンクタンクといってもよいかもしれないが)というのは、単に研究成果をあげるのだけではなく、研究成果から「政策提言」として世の中に発信していくことが重要であるということだった。それ以降、いくつかの研究機関の仕事をしたことがあるが、私の研究機関のチェックポイントの一つは政策提言機能ということになった。 今年になって中国の大気汚染と、その主犯であるPM2.5が大きく報じられるようになって、8年前の事を想い出した。研究計画のチャートに示された問題が、ほぼ予想通りになったのである。研究機関というのは政策提言が重要だが、そのベースには「次はこうなる」という確かな予測があり、将来の事を考える機関であるということを改めて思い知らされることになったのだが、研究所という名前を会社につけたのに何も「次はこうなる」という事を語っていない我が身を振り返って少し暗くなってしまった。
暖かい日が続いているが、冬場のような澄み切った青空とはいかず、少し霞がかかった用な感じでいよいよ黄砂の到来かと思っていたが、今朝の予報では今日の夕方から黄砂が襲来するとのことで、今朝までは単なる「春霞」だったようだ。私の眼も霞がかかっているということか。
今朝の日経の一面トップ記事は、「仮想工場で生産最適化 富士通ビッグデータ活用」という見出しの記事である。最近「ビッグデータ」という言葉に敏感になっているため(先週の日曜日もNHKスペシャルの「震災ビッグデータ」という言葉に魅かれてチャンネルを合わせてしまった)、興味を持って読んでみた。 記事をざっと読んでみるとシミュレーション技術と、ビッグデータの解析技術を駆使して「最適ライン」を求めるという、いわば“IEのIT化”という技術のようだ。 IEという言葉には懐かしい想い出がある。私が大学を出て最初に就職したのは、日本能率協会のコンサルティング・グループであった。どんなことをやるのかもわからず、ただ「コンサルタント」という言葉の魅力だけで職についたのだが、最初に洗礼を受けたのがこのIEというものだった。 当時の日本能率協会には、マーケティング・コンサルタントの部隊もあったが10名ほどにすぎず、100名ほどの陣容を抱えて主力を形成していたのが工場現場の改善を行うIEの舞台であった。研修は3カ月ほどあったと思うが、マーケティングなどはほんの数時間の座学だけで、大半は工場現場での実地を経験しながらの研修で、IEは寒川にあったタイヤ工場で2カ月、生産管理は名古屋のミシン工場で3週間のスケジュールだったと思う。 工場近くの旅館に泊まり込み、月曜の午前中に座学で教え込まれ、午後からはストップウオッチや巻き尺を持ってデータの収集を行い、週末までに調べた結果をまとめ、模造紙に改善案を書いて週末にプレゼンテーションを行うというスケジュールだったように思う。 工場は24時間操業なので、わからないことがあった時は夜中でも現場に行って確かめる事が出来た。そんなある夜、工場を一人歩いていたら、背中にズドンという衝撃が走った。タイヤが転がってきたのである。腰や足でなく背中に衝撃が走ったのは、自動車用のタイヤではなく、航空機用のタイヤがあたったのである。当時の最新鋭機B747のタイヤは自分の背丈よりも大きかったが、それではなかった。 振り返っても通路には誰もいなかったのだが、タイヤが一人で転がってきた様子もなかった。若造がのこのこやってきて、ストップウオッチを持って何やら自分たちの行動をチェックしているのを快く思わない人が居たのだろう。IEによる作業改善というのは、「やり方を変える」ということであり、慣れ親しんだ動作を変えるというのに抵抗を覚える人が多いということを気付かされ、いくら良いことでも“変える”ということは難しいということを学んだ想い出がある。 そんな人間臭いIEが、今やコンピュータ上で全て行われるようになったということは、タイヤをぶつけられる人は居なくなるということになるのだろうか。 |
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