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今月から、東京の私鉄やバスにパスモが導入され、スイカとも連動しているために使い勝手がうんと良くなった。改札機の中を通す場合に比べて、カードの出し入れの手間やスピードが速いために快適である。

パスモの難点は少し表示部分が薄く、引き落とし金額や残高が読みづらいことである。視力がやや弱いものにとっては、十分な確認ができない。スーパーのイオングループでも導入されているが、こちらは文字が小さくやっぱり読みにくい。高齢化時代を考えるともう少し読みやすい機種の開発が必要なのではないだろうか。

クレジット機能のついたスイカを利用しているが、残高が2000円以下になったときに、1万円が自動的にチャージされる設定をしている。JRの構内やスーパーなどでも利用できるため重宝している。

昨日、地下鉄の売店で夕刊紙の見出しを見ると、桑田の負傷が大きく取り上げられていた。地下鉄の売店ではまだスイカが利用できないため、乗り換えのJR八丁堀の売店で夕刊紙を買うことにした。

しかし、八丁堀の駅の売店は閉まっており、結局夕刊紙を買うことはできなかった。シャッターの上に、平日は16時からの営業と記されていた。シフトの問題と売上の関係で一時的に閑散時に見せを閉めるという措置を取ったものと見られる。

JR東日本では、積極的駅中ビジネスを展開する一方で効率を考えた施策を展開中である。キヨスクをコンビニスタイルの店舗に替えているのもその一つである。稲毛海岸の駅も早々とコンビニスタイルに切り替わったが、サービスの質は低下したように思う。

キヨスクの時代には新聞・雑誌やタバコを買う男の客が中心で、ベテランのおばさんがテキパキ捌いてくれて気持ちがよかった。コンビニスタイルになるとおばさんが一掃され、アルバイトに切り替わった。それでも新聞やタバコだけは従来のスタイルで外売り形式をラッシュ時には採っているが、タバコと新聞を買ってお札を出すと、電卓を用いて釣銭を出すなど歳をとって“いらち”が加速している自分には馴染めないものになってしまっている。

駅のコンビニの利用者はあきらかに以前に比べて女性の利用が増えていると思う。女性の後ろになるとレジが滞留し、“いらち”の私には余計そう感じるのかもしれないが。

JR東日本の合理主義は、スイカの導入などで便利になっている反面、一部のサービスの切捨てなどの不満が残る。

ところで、昨日初めて気がついたのだが、都営地下鉄五反田駅の身障者用トイレは、「だれでもトイレ」という表示があった。中々いいネーミングだと思うのだが、何時頃からこのように表示されていたのだろうか、自分の感度チェックのために調べてみようと思う。

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能登地方で大きな地震があった。民放のテレビがついていたが、速報が流れたのでNHKに切り替えて、様子を見ることにした。離れた場所の情報はすぐに流れるが、肝心の場所の情報が入ってくるのは遅くなることを感じさせられた。

感心させられたのは、臨時ニュースの進行を担当していた星野アナウンサーの落ち着いた対応振りだった。

被災地の住民や行政担当者との電話でのやり取りの中で、慣れない相手を巧みに誘導して情報を聞き出すやり方で対応していた。例えば、被害の情報を把握していないとしている人に対して、地震のときにどこにいたかの確認をまず行い、さらに役場に出勤するまでの状況を本人の眼で見たことを確認するなどして、情報を引き出すようにしていた。

多分、NHKの災害対応におけるマニュアルがあり、日ごろからマニュアルに基づく訓練をやっているのではないかと思う。先日の高知空港の見事な胴体着陸と同様に、日ごろの訓練の大事さを改めて痛感させられた。

ところで、今回の地震で亡くなった人は石灯籠が崩れたことが原因であったとのことであるが、怪我をした人の原因についての情報も流すべきではないかと思う。津波の恐ろしさ、火を消すことなどは擦り込まれているが、どんなことが被害に遭うのかについて、知識を持っていることが緊急災害時のリテラシーの向上につながると思う。
歯医者の帰り道に、近所の団地の中を散策してみた。35年前にこの辺りに仕事で来たことがある。地域開発のプロジェクトに携わっていた頃である。当時建設省が、旗を振っていた「ハウス55計画」のパイロットハウスを見学するためである。

35年前はモダンな感じがしたが、今となってはやや陳腐なデザインのマンション群となっている。ただし、木が大きく育ち落ち着いた雰囲気を醸し出している。パイロットハウス以外には周りに建物はなく、海岸まで2Kmほどの間は埋立地の赤茶色の地面が続いていたことが印象に残っている。

その後住宅公団の分譲や賃貸が一斉に建設され、団地群が形成された。美浜区は一戸建て比率が全国で最も少ない地域で、戸建は20%程度である。その中でも我が家の周辺は公団と民間マンションばかりで、戸建は5%に満たないと思われる。

これだけ高層住宅が多くても救われるのは、高層マンションが比較的少なく、4階建てが多いため、ゆったりとした感じがあることである。公団住宅の区画には所狭しと桜が植えられており、満開の時期には見事な景観を楽しませてくれる。戸建住宅が立ち並ぶ地域ではとてもこのようには行かないと思われる。

さてその桜だが、午前中の観察では5本に1本くらいの割合で、1~2枚の花が見られた。気象庁の開花宣言の基準は1本の木で5~6枚咲いたときに出されるようで、我が家の周辺の開花は明日もしくは明後日になりそうである。

開花から1週間で満開になるようだから、来週末は花見が楽しめそうである。来週は、朝の散歩の時間が長くなりそうだ。

日曜から月曜にかけて久しぶりに大阪を訪れた。関西方面でこの数年仕事がなく、新幹線に乗るのも4年ぶりであった。日曜は故郷の枚方で法事があり、法事の後で生まれ育った界隈を少し散策した。

 

昔を思い出しながらあちこち歩いたが、子供の頃は随分広い道だと思っていたが、大人になって見渡すと随分狭く感じ、大人の目線との違いを感じさせられた。宿場町「枚方」を盛り上げるために、市が助成金を出して外壁を格子状のものにしたり、行灯を玄関先などに設置したりするなどの工夫がなされていた。しかし、乱開発が進んで昔の面影を残すものは大半が取り壊された後に、少しぐらい街並みを整備する活動をしても、空しさだけが残るだけである。

 

私が生まれ育った家の隣が、「本陣」のあったところである。その後に、北河内郡の郡役所がおかれ、市になってからは教育委員会や図書館として利用されていた。子供の頃の絶好の遊び場であり、建物の前庭で三角ベースをしたり、建物の屋根によじ登り鬼ごっこをした場所であった。30年ほど前に取り壊されており、今は誰も遊ぶ人のいない公園になっている。整備されていないときのほうが、心地よさがあったような気がする。

 

親戚の家に立ち寄った時に、枚方と交野(かたの)の今と昔の姿を対比した写真集を見せられた。2年前に発行された1万円以上する高価な写真集である。懐かしい風景や風物が一杯掲載されており、酒の肴にしながらパラパラとページをめくっていたら、なんと50数年前の自分自身が登場していたのには驚いた。

 

枚方の酒屋がキャンペーンをしていたときのもので、父親に連れられて記念写真に納まっていた。酒屋のおじさんばかり20人くらいいる中に、幼児が一人居る不思議な光景である。私の父が最も若いくらいであり、ほとんどは既に故人となっている。なぜ自分がそこに居たのか、今となっては知るすべもなかった。

今朝東京都心でこの冬初めての雪が観測されたそうである。史上最も遅い初雪の記録となった。関東地方など太平洋側で雪が降る条件は、西高東低の冬型の天気図ではなく、台湾付近で発生した低気圧が発達しながら進んでいる時に、北から寒気が降りてきた時に降りやすいとされている。今朝の天気図も一応このパターンである。

真冬には西高東低が続くためあまり雪が降らず、12月や3月など厳冬期以外にも雪が降ることが良くある。3月の大雪で思い出されるのは、21年前の3月下旬の大雪である。現在のマンションに引っ越して最初の日曜日に、大磯で某メーカーのセミナーの講師として出かけた時のことである。

セミナーは午後から2泊3日のスケジュールで行う予定になっており、朝8時ごろ家を出た。自宅の周辺は雪ではなく、大雨であった。東京駅に付いた頃には雪が降っており、東海道線では吹雪の中の進行となり、横浜あたりからは途中の駅で何度も永井停車を繰り返しながら進み、平塚に辿り着いたところで、運休になってしまった。進むことも引き返すこともできず、やむなく駅を出て市内で昼食をとることにした。

幸い近くに蕎麦屋を見つけて店内に入り、蕎麦と熱燗で体を温めた。ところが蕎麦を食べている最中に停電し、薄暗い店内での食事となった。外へ出るには気合が必要なために、防寒対策として熱燗をもう一杯注文したところ一切料理ができなくなったと店員に言われた。

厨房では、ガスコンロと換気扇が連動しており、停電で換気扇が止まったために、自動的にガスも使えなくなったのである。仕方なく店を出ようとしたが、今度はレジが開かず釣銭が出せなくなっていた。あいにく1万円札しかなかったため、ありあわせの小銭を出して、残りはお店のサービスとなってしまった。店の自動扉は手動であけることができたが、町中が停電していた。

信号機も故障して道路も大渋滞していたが、バスを乗り継ぎ夕方にようやくホテルに到着した。夕方からでもセミナーを開こうとしたが、会場に到着していたのは大雪に影響されない西から来た人だけで、東京方面から来ていた人はごく僅かで、カリキュラムを変更して対応することになり、その夜は懇親会に切り替えコミュニケーションの充実を図った。

翌日到着した人の話を聞くと、途中まで来て電車がストップしたときのとっさの判断の差が明暗を分けたようである。大雪では15年ほど前に、勝浦で寒イサキを釣っていたときのことも思い出される。

珍しく朝から好調で、今日は大量だと思っていたのだが、1時間ほどで船長から陸の上では大雪なので早上がりするという指示があり、帰宅することになった。船の上では雪も降っておらずやや靄が立ち込めている程度であったが、港に戻るとうっすらと雪化粧があり、途中から大雪となった。

雪の上をタイヤチェーンもなく走るのは無謀だが、人里はなれた山中で車を放置して歩くわけも行かず、そのまま走り続けることにした。雪の上ではブレーキをかけることと大きなハンドル操作は絶対やってはいけないことと悟り、時速10キロのノロノロ運転(エンジンブレーキだけで走っている状態)で、スリップしてエンコしている多くの車を尻目に9時間かけてようやく自宅にたどり着いた。

日ごろ雪に馴染みが薄い人間にとって、大雪に遭遇したときに過去の経験や知識を総動員して対処する、「サバイバル」の知恵が必要だと感じた。


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