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ジャンボ尾崎のエージシュートがスポーツ面のトップ記事になっている。シニアツアーは緩やかな設定になっており、杉原や青木も何度か達成しているのだが、そのシニアツアーではなく、レギュラーツアーでの達成だからひときわ価値がある。それも66歳の年齢に比べて62のコースレコードと4つもおまけがついてのものだからスーパー・エージシュートだと思う。

尾崎を初めて知ったのは、私が高校へ入学する直前の選抜高校野球である。子どもの頃、スコアブックをつけながら高校野球観戦をするというのが私の楽しみ方の一つであった。高校生になってからは、他の事に気が向いたためにやらなくなったので、5~6年続いたテレビ観戦の最後の大会であったと思う。その大会で、尾崎は徳島海南のエースとして頑張り、優勝してしまった。

後年ジャンボという異名をとるぐらいだから大型選手だったが、もの凄い速球を投げるわけではなく、コントロールのよいピッチャーだったという記憶がある。翌年西鉄ライオンズに入団したが、2年生の時に選抜大会で優勝した同期の池永の方が、小柄だが数段上だったように思う。池永は黒い霧事件で引退に追い込まれたが、そのまま選手生活を続けていれば、300勝投手にもなれたのではないかと思っている。

そんな同期のライバルを身近に見たためか、さっさと見切りをつけてプロゴルファーへの転身をしたことが成功のきっかけだったと思う。その後も「第二の尾崎」を目指してプロ野球からゴルフへと転身した選手がたくさんいたと思うが、成功した選手は一人もいなかったように思う。

尾崎のように2年で見切りをつけるのではなく、10年近く野球の世界でもがいてからというのが、大成した選手がそれ以降出現しなかった理由だろう。決断の速さが尾崎を成功に導いたのだと思う。

尾崎の強さの秘密は、豪快なドライバーショットもあるのだが、小技のうまさも光っていたと思う。コントロールのよいピッチャーだったという野球選手の時代の素質が、ゴルフの小技とも関係するのだろう。私の父親は一度もプレーしたことがないのに、ゴルフ中継をよく見ていたが、尾崎のフアンだったためである。晩酌を一緒にやりながら、尾崎のスーパーショットについて私に語っていたことは想い出になっている。

昭和の時代、海外旅行というとB747であり、ジャンボは経済成長時代の象徴的な飛行機だったと思う。しかし、最近では成熟化に合わせたのか、小型で高性能の飛行機が重宝され、「大きいことはいいことだ」の象徴のようなジャンボはいつしか主役の座から降りてしまっていた。

それと合わせて、ジャンボ尾崎も退役したものだと思っていたのだが、「どっこいジャンボは生きている」と思わせてくれたのが昨日のスーパー・エージシュートだったと思う。次に墓参りに行った時には親父に報告しなければ。


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