社長のブログです
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オサマ・ビンラディンの暗殺は、どうも腹に落ちないニュースである。いかに極悪人といえども司法の場を経ずして暗殺という手段を取った事、その死を歓喜で持って迎えたこと、当該国の同意がなくて他国が軍事行使をしたことなどである。
常に正義が自分たちの側にあり、イラクに言いがかりを付けてフセイン政権を打倒したことや、民主主義勢力の支援の名のもとに、リビアに圧力をかけている行動などと同じ文脈のように思えてならない。 今回の作戦の暗号では、アメリカ先住民の酋長の名前である「ジェロニモ」という言葉を用いていた。交戦中に殺害という用語の頭文字EKIAという言葉を使って、「ジェロニモ EKIA」というのが、作戦成功の報告であった。 ジェロニモという言葉を用いたことで、彼らの本質が見えてくるように思う。何ともしっくりこない事件であり、彼らのように素直に喜べない決着の付け方である。 ところで、カタカナで書くと、オバマ大統領とウサマ・ビンラディンとは全く無関係のように思われる。しかし、英語の綴りではObamaとOsamaの一字違いでしかなく、bとsを取り違える“単純ミス”が連発しているようである。 PR
今年のゴールデン・ウイーク期間中に成田空港から出国する人は、昨年の半数にとどまるという予測が空港会社から発表された。10連休になるため、海外旅行には恵まれた日並びになるのにこの結果である。
中央競馬は震災以降西日本だけの開催で、東日本では場外発売所も閉鎖されて売り上げが大きく落ち込んでいた。ようやく先週から東京競馬場での開催が始まり、元の状態に戻ったのだが、先週行われた皐月賞の売り上げは前年比25%減であった。 1ヶ月間手を出すことができず、“飢餓状態”になっている人が大勢いたにもかかわらず、25%も減ったということは、開催が予定通り消化されていたならば、30%を超える減少になっていたはずで、成田からの出国者の減少とほぼ同じレベルである。 こうなると、自粛による二次災害という言葉では片づけられないのではないだろうか。日本社会全体が、“鬱病”に罹ったような気がするのだ。 鬱病はほっておくとドンドン深刻になる病気である。何とかしなければ、日本中が活力不全に陥り、復興どころか寝たきり状態になりそうな気がする。 そのための手段の一つは、“街を明るくする”ことではないだろうか。節電の徹底で、例えばメトロでは車内照明を落としており、年寄りには新聞や本が読めなくなってしまっている。オフィスビルでは廊下の照明を減らしており、すれ違う人の顔がわからなくなってしまった。体型に特徴のある人しか判別できないのである。 体や生活をこのような状態に慣れさせ、新しい生活スタイルを確立するというのも一つの方法だろうが、社会全体が鬱病の危機にある時には、どうなのだろうか。
久しぶりの冷たい雨で、東北地方には雪マークも付いている。夜明け前には秋田県で地震があり、そのニュースが流れている最中の6時過ぎにはテレビで緊急地震速報が流れて身構えさせられた。余震が収まらないことには、中々震災モードから抜けきれないだろう。
昨日は登校中の小学生にクレーン車が突っ込み、6人の子供の命が失われるという悲惨な事故が発生した。普段なら大見出しで報じられるような事故だが、メディアも震災モードにスイッチが入ったままなのか、扱いは控えめになっている。 震災モードに一番影響を受けるのはレジャー産業である。今年のゴールデンウィークは日並びが良く、5月1日と6日に休暇を取れば10連休になるため、業界では手ぐすねを引いて待ちかまえていたところだが、JTBが昨日発表した連休期間の旅行者数は前年比27.6%減となっている。 プロ野球が始まれば、自粛ムードは薄らぐと見ていたのだが、開幕日はそこそこの観客が集まったものの、それ以降は低調な動員が続いている。 余震が収まらないうえに、原発の安定化に向けての作業が進展しないために、浮かれて楽しむ気分になれないのだろうが、このままでは避難所だけでなく日本中が“不活発症候群”に罹ってしまいそうだ。モードチェンジをする手段はないものだろうか。
今日は今年初の“夏日”になる予報が出ている。半袖を引っ張り出して過ごしているが、防護服に身を固めて作業しなければならない人たちは、脱水症状や熱中症にも気をつけねばならず、大変な季節が早くも到来したということだろう。
放射線にピリピリしている人が多いのもわかるが、川崎市でがれき処理に協力すると公表したところ、「抗議の電話」が2000本殺到したと報じられているのには、悲しくなる。この人たちは、福島や新潟にある原発で自分たちの電力が賄われていたことを知らなかったのだろうか。 震災直後に、スーパーの棚に隙間があるのを見つけてトイレット・ペーパーを買い漁り、浄水場で放射能が検知された途端に、ペットボトルの収集に精を出した人たちと同じ人たちではないだろうか。 このブログへの最近の検索サイトからのアクセスでは、「タバコはシーベルト換算すると」というものが目立つ。4月3日に掲載したものである。 10日ほどの間に、10件を超えるアクセスになっており、同じような事を考える人が多いものだと感心させられる。 良く考えてみると、タバコはものの大きさを見せる時に使われることが多い。例えば、釣った魚の大きさの“証明”として、魚の隣にタバコを並べて写真を撮る。 これを応用して、タバコの発がん率から逆算してシーベルト換算したものを政府が発表すれば、川崎市への抗議の電話は減るのではないだろうか。少なくとも、喫煙者は抗議の電話はかけないだろうから。
地震発生以降、“単位”については勉強させられることが多い。ミリはマイクロの千倍であることがようやくなじんできたと思ったら、今度は“京”である。兆の一万倍であり、めったにお目にかからない単位で、私の記憶の範囲内では、日本の「国富」が10年ほど前に1京あったことぐらいだ(失われた20年の結果、現在の国富は兆の単位で賄える)。
昨日は、震災1カ月を経過しての首相記者会見が開かれた。冒頭の発言では、復興ビジョンを策定するに際しての3原則を述べたり、過度の自粛を諌めたり、被災地産品の消費を促すなどまずまずだった。 しかし、記者からの質問になってからはいただけなかった。記者の厳しい質問に、ムニャムニャと言葉を並べてはぐらかすだけで、何一つまともな受け答えはなかった。海外メディアの注目度は高いと思うが、翻訳に苦労するだろうことが想像できる答弁であり、このような人物が非常時のリーダーだということに情けない思いをした人が多いだろう。 震災以降久しくテレビ画面から遠ざかり、出てきたと思ったらガッカリするような発言しかしないのでは、小沢シンパでなくとも「菅降ろし」をやろうとする人が出てくるのではないだろうか。 震災・原発関連のニュースが氾濫する中で、おやっと思う報道が二つあった。 一つ目は、「子供の脳死判定」とその臓器移植についてだ。昨年の法改正で、15歳未満の子供の臓器移植が可能になり、その初めての適用ケースであるため、大きく報道されたのだが、移植手術を受けるのが心臓以外は全て成人に対するものであることだ。 私は、今でも「子供の脳死移植」には反対である。百歩譲って臓器を海外に求める行為を避けるためのやむを得ない措置だという理解だ。それなのに、昨日のケースは子供同士の「命のバトン」ではなく、子供から大人へのバトンが大半だということに釈然としない思いである。 一口に子供と言うが、移植を必要とするのは5歳未満の幼児であり、昨日の臓器提供者は10歳以上15歳未満と発表されており、幼児には“規格外”だったのだろうか。メディアには検証してもらいたいものだ。 もう一つのニュースは、名古屋で闇サイトで知り合った男たちが、何のゆかりもない女性を殺害した男への名古屋高裁の判決だ。 この事件は極めて悪質であり、死刑は当然だと思っていた。ところが、昨日の高裁判決では、一審で死刑判決の出た共犯格の男に対して、無期判決に刑が一等下げられたのだ。 判決理由の中で、「被害者が“一人であることを考えると”死刑とするにはためらいがある」としている。一人ならセーフで、二人以上ならアウトという“相場”に従うもので、釈然としない判決だ。何時までこんな判決が続くのだろうか。 震災報道が無ければ、この二つはもっと大きなニュースとして取り上げられていたはずだ。プロ野球も始まったことだし、そろそろ震災モードからチェンジしなければならないのだが、これを書いている時に「緊急地震警報」が流れた。福島県南部で震度5弱と表示されている。 |
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