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サクラの蕾はまだ固く、月末の開花は微妙と見た。「プロメテウスの罠」についての感想の続きを。

この本の最終章は、震災直後の官邸のゴタゴタぶりが描かれている。意思決定すべき人たちが、原発事故について知識が乏しい中で、通信網が逼迫して情報も乏しければ混乱するのもやむを得ないことだと思う。

しかし、当時の政権を擁護するつもりもない。「一生懸命頑張った」で済ませられる話ではなく、多くの人が放射線にさらされた責任は免れることはできないと思う。

もっと問題なのは、政権中枢の意思決定をサポートすべき官僚にあると思う。原子力・安全保安院は原子力の安全性を担保するために設けられた機関であり、事故が起きた時は先頭を切って働かなければならないのに、そのトップは事故当日に官邸を追われ、部下が官邸に助言を行うという役回りになってしまったのである。

保安院の当時の院長は、経産省の商務流通審議官が前職だった人物だ。およそ原子力とは無縁の立場だった人物が、双六の賽の目に従って原子力規制の役所のトップに就いたわけで、緊急時に総理に助言を与えるような見識はどこにも持ち合わせていないことは明らかである。

役人の世界での出世の条件は世渡り上手であることが第一で、専門性が問われることはまずない。スペシャリストというよりもジェネラリストが優先されているようだ。ここに根本的な問題があると思う。

意思決定をする立場なら、ジェネラリストとして様々な角度から物事を見るというのもわかるが、官僚というのは意思決定を行うことが前提になった組織ではないと思う。政治をサポートするのが役割で、そのためにはスペシャリティが重要な資質になるのだと思う。

事故当初の一連の動きを見ていると、院長以下の保安院の幹部は全てジェネラリストばっかりだったようだ。SPEEDIのデータが活用されていれば、同心円状の避難にはならず、飯館村の悲劇も多少は緩やかなものになったと思うが、保安院の幹部にはそのことの知識もなかったのだろう。

上がりの場面で事務次官になれなかった二番目、三番目の人物が横滑りするという、官僚機構のジェネラリストのための出世双六を何とかしたいものだが。
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寒いお彼岸になってしまった。例年ならサクラの便りが聞こえ出すころだが、この分だとサクラの開花は4月になってからで、10日過ぎに見ごろを迎えそうな感じで、満開のサクラの下での入学式は望めないだろう。新入生にはサクラがお似合いなのに。

朝日新聞は心情的に好きになれず、これまでほとんど読んだことはない。しかし、昨秋から原発事故を取りあげた特集の、「プロメテウスの罠」という連載は気になってはいた。それが学研から単行本としてまとめられたので、早速読んでみた。

目玉連載を自ら出版するのではなく、学研から発売されたことに違和感を覚えながらも、一挙に読み終えてしまった。最初の感想は、この連載を読んでいると、がれき処理の受け容れにもろ手を挙げて賛成する気にはならないという人々が出てきても不思議はないということだった。

連載はまだ続いているようだが、単行本にまとめられたのは1月までの部分で、多くは放射線量の問題に終始している。一言で言うと、政府の対応の鈍さがあれでもかこれでもかと指摘されており、当時の事を想い起しながら読み進めると、政府への不信感が増幅され、がれき処理も素直には受け容れがたくなるのであろう。

本では最終章に、官邸の震災直後の対応が取り上げられている。驚いたことの一つは、官邸の地下にある危機管理センターでは携帯電話が「圏外」になっており、携帯での外部とのやり取りは一切できなかったことである。外国からの侵略という事が危機管理の第一と考えると、むやみに私的道具を使ってのやり取りは好ましくないということなのだろう。

しかし、情報が乏しい災害対応において、有力な通信手段である携帯の「圏外」設定は、情報収集に大きな齟齬をもたらしたと思う。結局総理執務室がセンターのようになり、危機管理センターは十分機能しなかったのではなかろうか。総理執務室では携帯がつながっても、重要な戦略的オペレーションを手助けする機器が乏しくなってしまったと思う。オペレーションルームのあり方について考えさせられる出来事だ。

もう一つ気になったのは、官僚のサポートが十分果たせなかったことだ。これを続けると長文になるので、午後にでも校を改めて書く予定だ。晴れ間が見えてきたので、少し散歩して近所の公園のサクラの蕾の膨らみ具合を見てこようと思う。
最近目の調子が良くなく、新聞や本を読むのが苦痛になり、30分も集中して読むことができず、読書のペースが落ちてきている。休みの間に読もうと「コンサルティングとは何か」(堀 紘一著 PHP新書)を買ったが、まだ読み切れずにいる。

堀氏はコンサルタントとしてボストン・コンサルティングの日本代表を務めた後に、ドリームインキュベーターを創業した人物である。一方では、競馬の馬主として競走馬を多数保有し、重賞競走も何勝かしている。

競走馬は購入資金が必要なうえに、預託料という維持費がかかる。現在JRAで走らせるためには月々60万円の預託料が必要であり、何頭もの保有をしていると、相当の“財力”を要求され、コンサルタントを職業としている我が身にとって、“憧れ”の人物である。

その秘訣を“探る”ために本書を買い求めたのだが、なるほどと感じさせられ、示唆に富む内容の書物である。まだ全てを読み終えていないのだが、私の心を掴んだのは冒頭の「“何が問題か”が最大の問題である」という見出しである。

学校生活では、「問題の解き方」が重視されてきたが、社会生活では「何が問題か」を見付け出す能力が重要になるということである。私のやっている「マーケティング・アイ」の研修で、受講生から出る“不満”の一つは、問題解決のための具体的な手法に乏しいということである。

問題の解き方を教えるという学校生活の延長上での要望であると思う。しかし、私の研修のやり方では「兆しを見つける」ということに主眼を置いているために、彼らの“要望”には応えられていないのだと思う。

「兆しを見つける」≒「何が問題か」ではないかと思う。マーケティングの世界では、次がどうなるかをデータや観察を通じて考え、必要な手立てを打つのが重要になる。次がどうなるかを知るためには、兆しをどのように見出すかにかかっており、何が問題かを知るという堀氏の主張に通じるものがあり、納得しているのである。

「何が問題か」は、「論点整理」という言葉にも置き換えられると思う。政府の行っている事業仕分けが上手くいっていないのは、いくつかの仕分けをネット中継で観る限り、論点整理が名ばかりになっているためである。何が問題かの定義がずれているため、議論の内容にズレが生じているのだと思う。

内閣支持率が低迷しているのは、日本社会の何が問題かを整理しきれていないためだろう。
視力が衰えたことで、集中して文章を読むことが辛くなり、読書のテンポがかなり落ちてきている。そんな中で最近印象に残った本が、「街場のメディア論」(光文社新書 内田樹著)である。

本書は、神戸女学院大学での「メディアと知」という講義をベースに書かれたもので、口語調であるため非常に読みやすい本である。内容は、筆者のメディアに対する考え方を示したもので、「メディア・リテラシー」の教科書とも言える本である。

常々メディアの“正義面”に胡散臭さを感じていただけに、弱者の味方を振りかざして問題が起こるたびに医療機関や学校を叩く“魔女狩り”的なメディアの体質を批判しているのを、気持ちよく読み進んだのだが、ハッとさせられるくだりがあった。

経済学者の宇沢弘文氏の「社会的共通資本」を引用して、「自然環境や社会インフラ、制度資本(教育・医療・金融・行政・司法など)について、政治にも市場にも委ねてはならない」というものである。

こういうものは、コロコロ変わるのは好ましくないし、わずかな入力差が大きな出力差となって現れる市場原理で考えるのではなく、入力に対して感度の鈍い「惰性の強いシステム」として考えるべきであるという主張だ。

確かに、社会的共通資本は“ある”ことが大事であり、これを効率指標で捉えると、民営化後に大きな問題となっている非効率な郵便制度の存廃が顕著な例であろう。非効率がそのまま放置されるべきではないが、非効率を理由に存在を問われるべきではないのだと思う。

筆者は、変化=変わることを好むメディアが、社会的共通資本に対しても、ビジネスの世界と同様に変化を煽る体質があることを指摘しているのだと思う。

自分自身の仕事を振り返ってみると、病院や保育所、生命保険などの社会的共通資本についてもCS調査を手掛けてきた。CSは顧客の選択を出発点とする極めて感度の鋭い市場原理に即した考え方である。これを社会的共通資本にも適用してしまったという反省がある。

市場原理の真っただ中で競争するビジネスの世界ではCSは絶対的なものであるが、社会的共通資本の分野ではCSを絶対視するのではなく、インセンティブのような捉え方をすべきだったと思う。

インセンティブはご褒美・おまけのようなものであり、それですべてが決まるものではない。社会的共通資本についてはもう少し勉強してみたい。
昨夜は1時過ぎに床についたにもかかわらず、今朝は5時過ぎに眼が醒めてしまった。アメダスの気温では26度となっており、熱帯夜の寝苦しさのためだ。朝から強い陽射しがのぞいており、今日あたり梅雨明け宣言が出そうな気配だ。

文春新書から、「日本人へ」というタイトルの本が出ている。ローマ人の物語の塩野七生さんが、文芸春秋に連載しているエッセイが新書になって出版されたものだ。文春の看板連載としては、司馬遼太郎が亡くなるまで執筆していた「この国のかたち」が想い起される。

司馬遼太郎は“歴史のなぜ”を解き明かしながら日本人論を展開していたのに対して、塩野さんの連載はイタリア在住の目から見た、世界標準に照らし合わせながら、日本人論を展開しており、対比して読むと興味深い。

塩野さんの代表作は「ローマ人の物語」だが15巻もあるので、まだ挑戦していない。去年のはじめに「ローマ亡き後の地中海世界」を読んだが、文章のリズムが私には合いにくく、かなり苦戦をしながら読んだ。

「日本人へ」は、紙数が限られたエッセイ集ということもあるのだろうが、テンポがよく読みやすい文章になっている。昨夜1時まで起きていたのは、面白くて夢中になり夜更かししたためだ。

どの論をとっても気づかされる内容なのだが、特に私の心にぐさっと突き刺さったのは、「プロとアマのちがいについて」という文章である。絶対感覚の有無がプロとアマを分けるものであり、問題はそれをどう磨き維持するかだとしている。

私が携わるマーケティングの世界にあてはめると、データを眺めた瞬間に、どこに注目するかがわかったり、店や顧客を観察した時に“おやっ”と感じられる絶対感覚があるように思う。この商売のポイントを改めて感じさせられた気がする。

問題は、この絶対感覚をどのようにして磨き、維持するかにあると塩野さんは述べている。塩野さんはこの答えも用意しており、それは「自己反省」だとしている。環境のせいにするのではなく、自分の言行に徹して反省を行うことであり、しかも絶対に自分一人ですることだとしている。

昨今の自分の仕事が低迷していることの理由がわかった気がする。自己反省が出来ていないため、絶対感覚が鈍ってきているということで、プロとしては落第なのである。

耐用年数が過ぎたポンコツだが、もう一度磨きなおしてなんとか“売り物”にしたいものだが…


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