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今日は良い天気で暖かくなりそうだ。「春に3日の天気なし」という諺があり、明日はもう下り坂になりそうである。

楽天がソフトバンクに3連勝した。地元での3連勝は創設3年にして初めてだそうで、春の椿事である。しかしこの3連勝の主役はいずれも若手投手陣であり、春の椿事では済まされないかもしれない。何しろ監督が、「弱者の戦略」に長けたあの人なのだから。

私は、野球の贔屓球団は何回ホークスであった。小学校の頃、親父に連れられてよく野球観戦をした。甲子園をはじめ西宮、難波の大阪球場、森之宮の日生球場と藤井寺以外の関西の野球場には何度も足を運んだものである。親父は巨人フアンで、周りの大人も巨人フアンの方が阪神フアンよりも大分多かったように思う。今の関西の状況とはかなり違う。

その中で、私は南海ホークスのフアンになった。試合前に食べる大阪球場のカレーライスが口にあったのも大きな理由だが、子供の頃からへそまがりで、皆とは違うことに生きがいを感じていたのもある。南海フアンになったのは昭和31年の頃からだったと思う。その前年の日本シリーズで、南海は3勝1敗から巨人に3連敗して大逆転を喰らったのだが、悔しい思いが残っていないので次の年からフアンになったのだと思う。

31年からはそれこそ悔しい思いの連続で、西鉄に3年連続チャンピオンの座を奪われていた。何年であるかは忘れたが、オールスターの頃までに10ゲームの差をつけていたのに逆転されたことがある。昭和38年にも同じように逆転されたことがあり、勝負は最後まで分からないという教訓になった。

そのような中で、34年に杉浦が38勝4敗という信じられない成績をあげ、日本シリーズでも4連投の大活躍をして優勝した時は天にも昇る心地であった。日本シリーズが終わったあと、南海電鉄が経営する岬公園でサイン会があったので連れて行ってもらった。

狭いとはいえ、大阪の東の端から南の端まで行くために、2時間はたっぷりかかった。さらにサイン会にでかけるのだからということで、心斎橋の大丸に立ち寄り色紙を買ったため、岬公園に着いたのが午後もかなり時間がたってからだった。

会場に着いた時、丁度サイン会が終わったところで選手が歩き始めた時だった。歩いている選手に対して色紙を持って必死になって突貫していったが、すげなく拒否され背中を思い切り叩いたのを鮮明に覚えている。子供にとってとてつもなく大きな背中だったのだが、その背中の持ち主が野村だった。

サインを断った憎いやつとして野村嫌いにはならず、背中の大きさに惹かれてその時から野村フアンになった。ちなみにそれまでのご贔屓選手は、後に近鉄の監督になる岡本二塁手であった。それ以来三冠王になった時や、プレイングマネジャーとして優勝した時は多いに感激したものである。

鶴岡に南海監督を更迭されてからも、常に野村ウォッチャーを続け、南海フアンもやめた。ヤクルト、阪神の監督時代を通じて彼はいつも「弱者の戦略」を提唱し、ヤクルトでは見事にその成果を出した。彼は戦略家であると同時に選手育成の名人であると思っている。阪神が優勝争いの常連になったのも野村の発掘した遺産が大きいのではないだろうか。

プレーオフ制度は弱者の戦略にはもってこいである。若手を育てながら3位を狙い、その先をどう戦うかが見ものである。
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