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小学校3年生の時に、腎臓を患って3学期を丸々休学したことがある。食事療法と安静が治療法で、3ヶ月寝床に着いたままだった。仕方なく、本を読んで過ごさざるを得ず、読書好きが身に付いたというのが今から思うとメリットであった。

その頃特に好きだったのが子供向けに書かれた歴史物で、特に関ヶ原の合戦と、赤穂浪士を描いたものが特に好きで、何度も繰り返して読んだ。2冊の本に共通するのは、禄高の一覧があったことである。石田三成は近江佐和山19万石の大名であり、大石蔵之助は1400石の家老、堀部安兵衛は200石の高級武士であったことなどである。関ヶ原の合戦に参加した大名の禄高や、47士の禄高は暗記してしまった。

数字好きがこの頃からあったようだ。ところが、織田信長の本を読むようになったときに、この点が少し物足りなく感じた。禄高が出てこないのである。例えば明智光秀を召抱えた時に、銭3千貫を与えたというような記載であり、馴染みのある禄高が出てこず、どれほどの重みがあったのかよくわからなかったのである。

自分だけがこのような感じを持っていたのかと思っていたら、図書館で借りた司馬遼太郎の「歴史の世界から」という1980年に発行された本に、この話が出てきたのである。織田信長の部下は、秀吉や勝家の禄高がいくらであったかの記録が全くないというのである。

織田信長は、「傭兵制度」を採用した大名であり、このことが半農の武士を抱えた他の大名との戦争に有利に働き、天下統一の道を切り開いたものといえる。農業に縛られない傭兵はいつでも軍事行動ができるが、半農の軍隊は農閑期しか兵を動かすことができないのである。そのために、禄高の記録が残っていないと司馬遼太郎は語っている。

秀吉以降江戸時代が終わるまでは、禄高が給与を示すものであった。銭の替わりに米で支給されるもので、土地に縛られるものではなかったのが、信長以前との違いである。

米換算のシステムが商品経済(貨幣経済)の発展とともに、財政圧迫要因になり、武士の世界が終わりを迎えたということができる。歴史にIFはないのだが、信長が本能寺の変がなくて生き延びたなら、禄高というものが採用されず、もう少し違った日本になったと思うのだがどうだろうか。

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