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自民党の役員人事が発表された。発足当時の内閣支持率はご祝儀や期待感ということもあって高めの数値なのだが、これでは40%を確保できれば上場で、おそらく30%台でスタートし、20%台の危険水域で支持率は漂い続けるのではないだろうか。

特に今回の役員人事でいけないのは、新たに選挙対策委員長というポストを総裁直轄組織として格上げし、三役から四役にしたことだ。これまでは、選挙対策(特に公認)は幹事長の専権事項で、人事権と資金を握ることで存在感を示してきた。しかし、選挙対策という政党にとっての人事権の一つを取り上げたことで、調整役としての存在に過ぎなくなり、組織構造に歪みが生じるように思う。

もちろん、顔ぶれが派閥の領袖ばかりであるというのもいただけない。安倍内閣が未熟さを露呈して崩壊してしまったことの反動が、表れた人事とも言える。

派閥政治が小泉内閣以来影を潜めていたのが、先の安倍内閣の改造人事でチラチラ見え出し、今回はかなり鮮明に姿を現してきたように思う。80年代末から、90年代にかけて自民党が一気に凋落した理由の一つは、派閥の力学という、顧客満足(国民の意思)を無視した政治手法のせいである。

予算の時期である。参議院選挙の惨敗の影響もあり、この役員人事からするとかなりバラマキ型の予算編成になるのではないだろうか。ばら撒くと必ず利権が発生し、政治と金の問題の種がまた一つできそうだ。

90年代の自民党の凋落は、失われた10年という言葉で表される日本の長期低迷をもたらし、日本の国際的な地位は著しく下落した。90年代は毎年のように首相の顔が変わり、酔っ払いの千鳥足のような政治状況であったが、再びこのような時代を迎えると日本のトップは、サミットでの発言力はほとんどなくなるかもしれない。

このような心配をしながら、福田船長の舵取りを見守ってゆきたい。
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「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉があるが、まさにその通りで昨日からぐんと気温が下がり、半ズボンで散歩すると少し寒いくらいの陽気になっている。週間天気予報では最高でも29度であり、ようやく秋が訪れるのだろう。

自民党の総裁選挙が昨日終わった。当初は19日に投票する予定を、短期決戦で決着を図る麻生幹事長の思惑を封じるために。「候補者の主張を国民が理解するには短い」という理由で昨日まで選挙戦が延ばされた経緯がある。

麻生派を除く全派閥が一斉に福田支持を表明したため、告示の前に勝負ありという結果であった。選挙機関のパフォーマンスでは麻生が優性で、その結果は地方票での善戦、特に東京・大阪などの都市部では麻生がリードしたことに示されている。

その結果麻生氏は190表を獲得し、前回の安倍氏と争った総裁選挙よりも5割り増しの得票となった。当初の予定通り19日に投票していれば、これだけの票は獲得できなかったかもしれない。投票日を延長した人たちの思惑外れだ。

テレビを見ていると、麻生氏の出陣式には代理も含めて42人が集まったと報道されていた。実際の麻生氏が獲得した議員票は132であるから、大半は儀式に参加しなかったことになる。堂々と支持を表明できないというのはどういうことか疑問だ。

議員票と、地方票に10ポイント以上の開きがある。それだけ自民党議員が民意に鈍感だということを示しているのであろう。今後はどのような人事をするかで、福田内閣の寿命が推し量れると思う。

麻生氏は負けっぷりのよさで政治生命を大きく伸ばしたと思う。次の総裁選挙では間違いなく本命視されてよいと思う。ただし、総裁にはなれても、親分の河野洋平のように野党の総裁で、総理大臣にはなれないかもしれないが。

朝5時の気温は20度、昨日の午後の気温が21度であるからほとんど変わっていない。Tシャツ、半ズボンでは耐えられない。季節の急変に政治の世界も急変した。

安倍首相の辞任表明で、NHKの番組はほとんど飛ばされるなど、強烈な台風がやってきた時のようである。一番無責任な辞め方であり、1ヶ月遅かったと思う。これは自民党にとっても痛手で、郵政選挙の大勝が終わりの始まりで、参議院選挙の大敗、時期衆議院選挙と自民党の崩壊が続くのではないだろうか。

去年の総裁選挙で圧勝したが、今年の参議院選挙での惨敗の現状を見ると、自民党と国民の間のギャップがいかに大きいかを語っていると思う。参議院の選挙結果をベースに試算すると、次回の衆議院選挙で自民党は200を割り込みそうで、公明党を加えても過半数には到底及ばない。

先行きを悲観しての突然の辞任なのだが、おかしな兆候はあった。例えば、一昨日来年度予算の概算要求がまとめられたが、概算要求としてこれまでで2番目の規模に達していた。

小泉構造改革で財政改革が推し進められ、公共事業の大幅な削減や福祉の見直しなど小さな政府に向けての舵取りがなされてきたが、概算要求の段階でこれまでの削減を補うかのような行動であり、官庁では安倍路線をなめきったようにも見えたのである。

これに抗する力も気力も萎えてしまったのかという印象を持った矢先の辞任表明であった。麻生幹事長に事前に辞意を漏らしたときに「求心力」がなくなったということを理由にしていたそうである。

後継総裁を選ぶ選挙が来週にも実施される。一昔前なら派閥のボス同士の談合で緊急避難的な総裁の決定をしていたのだが、森首相で懲りたのか今回は選挙での決着になりそうである。

有力派閥にはなり手がなく、なりたい人は少数派閥であり、帰趨を読むのは難しい。昨年の総裁選挙でも本命の安倍候補の対抗馬は、いずれも少数派閥の麻生氏と谷垣氏であった。有力派閥のボス同士のガチンコ対決は福田VS田中、大平以来ないのではないだろうか。

この理由は派閥の中で頭角を現しだすと、足を引っ張る勢力も台頭し、その結果全体を抑えられないと分派という「遠心力」が働くのであろう。負け方の見事さが次第に求心力につながり、小泉長期政権という例もある。

意欲満々の少数派閥と、無気力の塊の大派閥という構図は遠心力と求心力の関係になるのではないか。人類に共通しているのか、日本人の特性なのか、はたまた自民党固有の問題なのか。

今のところNo2の麻生幹事長の昇格、安定感がありリリーフにぴったりな福田元官房長官か、小泉の再登板あたりが候補になるが、積極的に火事場の栗を拾いに行くものはなく、結局麻生幹事長に落ち着くのではないだろうか。

麻生氏の弱点は失言癖があり、墓穴を掘る可能性があることである。いずれにしても誰が就任しても短命内閣であり、90年代に戻って首相は1年交代というスタイルが再来するかもしれない。

今朝も6時で21度、9月の声を聞くと一挙に秋に突入したようである。同じ時間の大阪の気温は26度、こちらはまだまだ暑い様である。

今朝の新聞のトップ記事は、遠藤農水相の辞任である。先週大臣に就任したばかりで、不祥事が発覚し、問題大臣をかばい続けたことが参議院選挙の敗北につながったとされたためか、素早い対応である。

世界陸上に気を取られ、一般のニュースに目が届きにくくなっており、いつの間にこんな問題が生じていたのか分からないうちに、あっという間の辞任劇だった。この場合の素早い対応は、決して褒められることではなく、せっかく少し回復した内閣の支持率は再び低下することになるだろう。

農水省はこの1年間に3人変わったことになる。呪われたポストであり、後任にはなり手が居ないのではなかろうか。それにしても、「人身一新」を目指し、“身体検査”を十分の期間を取って行ったにもかかわらず、すぐに問題大臣が登場する。危機管理能力を疑わざるを得ない。

そもそも安倍首相は「人身一新」を標榜しているが、その中身は自分は居座り大臣を総とっかえしているだけだ。これではトカゲの尻尾切りならぬ、胴体切りである。トップが交替しない「人身一新」はありえないことだ。胴体切りをしてしまったために、間もなく悶絶死するのではないか。

久し振りにスポーツ以外のことを書いた気がする。


昨日に続いて、選挙の話をもう少し。安倍首相の人気のなさの要因の一つが、人間としての魅力の乏しさにある。相手に攻撃されると、すぐに声を荒げて反論するというのは大人の対応ではない。どっしりとした対応に信頼感が置かれるものだ。

言葉を大切にしないというのも欠点だ。「美しい国日本」「戦後レジームからの脱却」などというキャッチフレーズは一見すると分かりやすそうだが、よくよく考えてみると何を言いたいのかさっぱり分からない。一言で“つかみ”を得るというのは重要だが、つかみ損ねた感じだ。

レジームというのはフランス語で「アンシャン・レジーム」というのが有名な言葉だ。旧態依然と翻訳されている。この言葉は2度有名な使われ方をしている。1度目は、デカルトが17世紀中ごろにフランスの封建体制を批判する言葉として用いられ、2度目は18世紀末のフランス革命でルイ16世やマリー・アントワネットの行動に対して用いられている。

長く続くことによって、澱がたまったり、カビが生えるということなのだろう。戦後の枠組みでよくないことは何で、なぜ良くないのか(旧いからというだけでは理由にならない)を示す必要があると思う。

1992年に田村 明という人が書いた「江戸東京まちづくり物語」(時事通信社)を読んでいると、山の手と下町の対比で面白いことが書かれている。

山の手は武家屋敷が集中しているが、武家同士の交流はご法度であり、必然的に屋敷内だけでの交流(ムラ社会の形成)となるのに対し、下町の裏長屋では、井戸やトイレなどが共同であり、共有することにより市民社会が形成されたという意味のことが記されていた。

現代にあてはめると、侍はサラリーマンに置き換えることができる。大名は大手企業であり、旗本・御家人は国家公務員のようなものだろうか。戦前は、農業に従事する人が50%あり、さらに残りの50%のうちの多くは商工自営であり、サラリーマンはごく少ないエリートであった。

しかし、戦後は一貫してサラリーマン=侍階級が増え続け、農業は5%を切り、商業なども個人経営から会社経営が主流となりつつある。その結果が、会社というムラ社会の影響力が大きくなり、共有することで培われた連帯感が元になる地域社会の崩壊が生じてきたのではないかと思う。

オリンピックやサッカーのワールドカップで国を思い出し、甲子園の高校野球で強度を思い出すのは、郷土の連帯感という残滓がまだ残っているのかもしれない。

地域社会を甦させるというのも、立派な戦後レジームからの脱却になると思う。安倍首相は憲法改正だけしか眼中にはないようだが。


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