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台風は、頭を押さえつけられるような感じで、日本の南岸を東へ抜けていった。北の高気圧の勢力が強かったのだろう。そのせいか、今朝は少しひんやりとしており、一挙に真夏モードとはならないかもしれない。

東京の話の続きを。太田道灌が江戸城を築いた時は、千代田村や祝田村といった寒村があるだけで、全く辺鄙な地域であった。江戸城は、武蔵野丘陵と利根川デルタの交点に位置していた。丘陵の端が山の手で、利根川デルタが下町になる。

利根川デルタは、川筋が一本ではなく、いくつもの川が支流となって湿地帯を形成しており、度々の水害に悩まされていた。家康が江戸入城して以来早速取り掛かったのが、利根川の付け替え工事であった。利根川の付け替えは江戸時代を通じて行われ、最後には銚子から太平洋へという現在の姿になった。

ほぼ同じ時期に、大阪では大和川の付け替えが行われ、大阪市内から現在の堺へと川筋を替える工事が行われた。名古屋でも長良川の改修工事が行われており、江戸時代の土木事業が、今日の3大都市形成に大きく役立ったというのは面白いことである。

家康の行った土木事業として、埋め立て事業がある。神田山の大地を削り、海に面していた江戸城の前方を埋め立てて陸地とした。今の日比谷や銀座である。明治になって、新政府が官庁街を造ろうとして、日比谷公園一帯で計画を始めたが、地盤が弱く断念し、公園になったとされている。一番深い場所であったのだろう。

江戸城の防衛を考えると、利根川デルタに囲まれたエリアは軍を動かすのには適さず、武蔵野丘陵の側への防衛線の構築が主眼となる。そのために、旗本を中心とした武家屋敷をこの地域に配置した。対照的に利根川デルタの埋め立てエリアには、町人(市民)が住むエリアとなった。山の手と下町の誕生である。

死者が10万人を超え、江戸城の天守閣も炎上した明暦の大火(振袖火事)を契機に、江戸の姿が大きく変わる。具体的には、江戸城内にあった武家屋敷や寺社を城外に出すことにより、玉突き現象を伴って江戸が膨張を始めるのである。これが現在まで続く首都東京の膨張と一極集中のスタートとなる。

続きは機会を改めて。
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