社長のブログです
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ボストンマラソンの爆弾テロ(かどうかはわからないが)のアメリカのメディアのニュースでは、爆風で吹き飛ばされながら起き上がってゴールにたどり着いた78歳のランナーや、現場でいち早く救助に当たった帰還兵の活動などが大きく報じられていた。
何となく違和感を感じていたのだが、今朝のフランスのテレビ局のコメンテーターは、「アメリカという国はこのような事件が起きると“団結”という言葉がすぐに出てくる。それを促すためなのか、事件が起こるとすぐにヒーローが登場する」と皮肉っぽくコメントしていたが、確かにアメリカのメディアはヒーローを登場させたがるようだ。翻って日本ではどうなんだろうかと想い起してみると、“奇跡的”という報道が多いように思う。国民性の違いなのだろう。 総務省が昨日発表した人口推計によると、この1年間で日本の人口は28万人減少した。過去最大で、これから毎年地方中核都市の人口が一つずつ失われていくことになる。人口減少の中で、65歳以上人口は100万人増えてとうとう3000万人を突破した。来年には団塊世代のピークが65歳を迎えるので、65歳以上人口は3200万人になりそうだ。 地方中核都市が一つ一つ消えていく中で、毎年政令指定都市一つ分高齢者が増える勘定で、これでは国内産業が持つわけはなく、日本に投資しようという奇特な人はどこにもいないのではないだろうか。 老齢化指数という指標がある。14歳以下の子どもの人口を分母に、65歳以上の高齢者を分子にし、100をかけて指標としたものである。100を超えると高齢化、50とか60あたりの数値だと若い人が多い地域というように、地域の活力を見る指標として70年代から80年代によく用いていた。90年代に入ったころから100を上回る地域が目立ち始め、今世紀に入ると大半のエリアで100を超え、この数年では県単位で見ると沖縄がかろうじて100を切る県だったのだが、とうとう今年は100を超えてしまい、指標としての価値がなくなってしまったようだ。 少子化対策は待ったなしであり、せめて人口が増えなくとも、人口が減らない状況を作らない限りデフレからの脱却は不可能と思うのだが PR
ボストンマラソンのゴール付近で爆発が起こり、死者と多くのけが人が出ている。マラソン大会は競技場ではなく公道を利用するため、選手との距離が近く多くの観衆が応援に詰め掛け雑踏が生じる、テロリストにとっては格好の獲物だ。一昨日、ピョンヤンで行われた国際マラソン大会のニュース映像では、観衆が一人もいない“異様な”雰囲気のマラソン大会だった。テロを懸念して無観客マラソンにしたのだろうか。
事故を受けて、ニューヨークの株価は急落し、円は96円にまで値上がりをしている。昨日大きく下げた東京市場は、今日も急落するのだろうか。気になるところだ。 先日、立川断層帯について“誤診”があったことが話題になっていた。工場の敷地跡を断層と見誤ったお粗末なものだったが、その時の責任者の言い訳は「見たいものを見ようとするようになってしまった」というものだった。都合のよいものだけに眼を注ぐというのはありがちなことで、私もデータ分析をする時の態度であるのではないかと戒められた出来事だった。 それと同じようなことが昨日の日銀の支店長会議であったのではないだろうか。全国の景気動向について、9か所全ての地域で上昇傾向にあるとの判断が出されたのだが、日銀が「質的・量的金融緩和」に踏み切った直後の事であり、それほど効果はまだ現れていない時期なのに、全ての地域で上向きの判断というのは、見たいものしか見ていないということではないだろうか。 日銀の総裁・副総裁人事は人事権のある政府の意向が強く反映されている。その総裁が人事権を持つ支店長が「見たいものしか見ない」というのは、勤め人の習性のようなものだと思う。 これと同じようなニュアンスで私が危惧しているのは、教育委員会制度の改革である。昨日提示された改革案では、教育委員会はオブザーバー的な立場になり、教育行政は首長が任命する教育長が担うとされている。人事権のありようからすると、首長の意向が教育行政に強く反映することになるのだろう。 自分の事を棚に上げて、教育問題に口をはさむ輩が政治家には多いと思う。大事な教育問題をこんな政治家たちに意のままにされるというのは、私には生理的な嫌悪感をもよおしてしまうばかりだ。 「見たいものだけしか見ない」ような風潮がまかり通る世の中を“見たくない”のだが…
朝の連ドラは当たり外れがあり、3月まで放映されていたものはうるさいばかりで全く観ることはなかった。4月から始まった海女ちゃんも同じようにうるさいのだが、何となくほのぼのした感じがあり、半分くらいは観ている(というかテレビが点いていると言った方が正確なのかもしれないが)。
海女さんといえば、子どもの頃お伊勢さんへの修学旅行の時に、海女さんのショー(だと思う)を見た記憶がある。潜り終えて浮かび上がった特に「ぴゅー」という笛のような音がしたことを、50年前のことなのにいまだにはっきり覚えている。よっぽど、印象に残っていたのだろう。 20代のころ真鶴半島に出かけた時に、海岸を散策していて海女さんの仕事の現場に出くわしたことがあった。年配の海女さんであり、テレビの海女ちゃんとは違うのだが、ショーではなく、生の仕事ということもあって興味深く見とれてしまった。獲ってきたウニを磯場で殻を破って捌いていた。取り出したウニを海水で洗っていたのだ。 見ていると、海水で洗う度に切れ端が波に乗って私の前に流れてくるではないか。思わず手に取って口に入れると、適度な塩分があり甘さが一層引き立つ感じがした。夢中になって流れてくるウニの切れ端を口にし、一個分ほど食べたのではないだろうか。それ以降も何度もウニを口にしたが、私にとって最高のウニの味というのは、真鶴のウニになっている。 先日、エビの桑田を覗くと、殻付きのウニが売られていた。ウニと言うと箱に詰められたものしか見る事がなく、真鶴の事を想い出し、一個買い求めた(480円だった)。殻を破るのが大変そうなので、口を開けてもらって帰宅した。黄色い実だけかと思ったが、茶色いものが混ざっている。少し口に入れると口中に苦みが走ったため、取り除かなければならなかった。 どこかに偏って茶色があればよいのだが、まんべんなく黄色の実に混ざっているので、老眼で手先の不器用な私にとっては一仕事だった。真鶴を想い出しながら懸命に作業をしたのだが、10分以上かかってしまった。手の温もりがウニにいきわたってしまい、真鶴のウニには到底及ばないしろものになってしまった。 その前にも、車エビの生きたものを5匹買い求めたことがある。一匹98円で、五匹490円である。「踊り」にして食べるつもりで持ち帰り、捌こうとしたのだが、敵も懸命に暴れるので頭をとり、殻を外すのに難渋を極めた。三匹退治した段階であきらめ、残りの二匹は頭とともに塩焼きにした(これも暴れまわるのを抑えて火にかけるのが大変だったのだが)。 捌くのに手間取ったため、寿司屋で食べるような口の中での「踊り」はなく、エビの刺身になってしまった。むしろ塩焼きの方が、甘みもあり美味かったように思う(生きの良さは塩焼きにしても現れるということなのだろう)。 いい素材を自宅で味わうためには、包丁さばきに磨きをかけなければならないのだろうが、ホッキ貝の口の開け方は身に付けたが、刺身の形は美しくはない。生来の不器用さはどうしようもないのだろうか。
学生時代に、陸上競技の中距離を走っていた。大抵の試合では予選を1回走ってあえなく落選し、1日に2度レースを経験する事はほとんどなかったのだが、一度だけ予選を通過し決勝に進んだことがある。といってもメジャーな試合ではなく、「枚方選手権」という草競馬のような試合の1500mでのものだった。
予選では調子がよく、ラストは少し力を温存し、決勝への余力を残しながらのレースをすることができた。しかし、1日に2レースを走るという経験をしたことがなく、決勝への調整の仕方がわからず、2時間後の決勝ではヘロヘロになってしまい、予選のタイムを下回ってしまった。力を蓄えていたはずだったのに、ガス欠を起こしてしまったわけだ。 昨日の水泳の日本選手権では、レース間隔が20分しかなかったのに両方のレースで優勝という驚異的(少なくとも私にとっては)な選手が現れた。ロンドン五輪の個人メドレーでメダルをとった萩野が、200m自由形と100m背泳ぎという単独種目でのものだった。しかも相手は、松田、入江というメダリストを破ってのものであり、価値ある優勝となった。 アメリカの水泳選手では、異なる種目でのチャンピオンが登場することがよくある。古くはミュンヘン五輪で金メダルを6個獲得したマーク・スピッツ最近では金メダルを量産している、マイケル・フェルプスやロッペンなどである。スピッツは自由形とバタフライだったが、フェルプスはバタフライと自由形と個人メドレー、ロッペンは背泳ぎと個人メドレーでの活躍である。一芸に秀でるだけでも大変なことなのに、多芸に秀でるというのはもう1ランク上の評価になると思う。 個人メドレーという競技はそもそも万能型の能力を要求されるスポーツなのだが、切り取った種目でも一流の成績を収めるというのは“超万能型”の選手と言え、フェルプスがスーパースターとして尊敬されている所以だと思う。 萩野の場合は、まだ単独種目では世界チャンピオンではない(“本職”の個人メドレーでもロンドンでは銅メダルだった)のだが、日本ローカルでは立派な超万能型の選手になったと言える。まだ大学生になったばかりであり、これからどれだけ万能ぶりを見せるのか楽しみだ。 目標とする6冠には、ロンドンのメダリストである入江を倒す必要がある。今日のレースが楽しみだ。
昨日の国会中継では、教育問題をテーマにした集中審議が行われていた。久しぶりに枝野が質問に立ち、経済格差が学歴格差を生みだすということから、アホノミクスに対する問題点の指摘をしていたのだが、首相や財務大臣の態度(答弁の時の態度ではなく、相手の質問を聴く時の態度)は、せせら笑いを浮かべ「お前らの政権ではできなかったではないか」というおごり高ぶった態度が見え見えで、見苦しい光景としか映らなかった。
今週の日経の特集の一つは「再生米国を行く」というテーマであり、今朝の記事は「誰もいなくなった」というタイトルが付いている。自動車の街であるデトロイトのルポであるが、GMなどの企業は再生したものの、街は荒廃したままであると記されている。 企業再生によって370億ドルを超える手元資金を得たが、その資金は新興国に回り、市内の自動車関連就業者数はピークの1/10に減ったままだとしている。1/10というのは飛んでもない数字だが、これが改善されないのでは、デトロイト市が破たん寸前になり、州の管理下に置かれるというのは当然である。デトロイトが夕張と同じようだとは信じられない思いがする。 日本でも、円安と株高で大企業が潤っても、その果実を日本国内の投資に回るのかは疑問だ。企業経営者というのは国民に対して責任を追うのではなく、株主に対して責任を負うのが資本主義のルールである。先日、西武鉄道の筆頭株主が、球団の売却や不採算路線の廃止を求めているというニュースが飛び出したが、これも利益の最大化を求める“資本の論理”ということなのだろう。 物価だけが上がって、雇用・賃金に反映されないのでは、アベノミクスではなく、アベノ“ミス”ということになりかねない。実体経済にほとんど変化が見られないのに、株価が束の間上がっただけで、予算委員会の首相や財務大臣の見せる、傲慢な態度を見ていると危惧を感じてならない。 日経の同じ面に、コンビニ大手3社の決算発表の記事が大きく取り扱われている。掲載されているデータは今期実績と来期見通しで、営業総収入と営業利益が各々前期比の伸び率が付いたものである。過去最高益が続くということを示したいのだろうが、私がこの数字を見てすぐに暗算をしてしまった。 利益率が違うということが直観的に見て取れ、暗算ではセブンイレブンの営業利益率は30%なのに対して、ローソンとファミリーマートのそれは14%ほどである。利益率の高さは“企業力”そのものであると思う。セブンの凄さがよくわかるものだ。ローソンの社長が政府の経済再生の委員会のメンバーになっているのだが、セブンイレブンのトップをメンバーに入れるべきなのではないだろうか。 |
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