社長のブログです
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全国一斉学力評価テストの問題が新聞に発表されている。早速眺めてみたのだが、字が細かすぎて読み辛いことこの上ない。近視の老眼ではこのサイズの文字を長時間読むことに耐えられない。
休み休みしながら何とか国語の問題は読み終えることができた。問題を読み解くのに手こずる出題もあるが、「考える力」を問うような出題が多く、「地頭」を強化するという方向では概ねいい出題だったと思う。 試験問題はよいと思うのだが、その活用方法については問題点がいくつかある。一つ目は結果のフィードバックである。 4月に実施されたものが採点に時間を要し、秋にならないと結果がわからない。せっかくチャレンジングな出題をしても、半年後のフィードバックでは効果はないと思う。学校現場では、次の授業時間にでも「答え合わせ」の時間を設ける必要があると思う。 二つ目は、悉皆調査でよいのではという指摘に対することである。これに要する費用は50億円を超えるそうで、宅配業者や採点業者にとっては特需であるのだが、そんな費用をかけてやるまでのことかという意見である。学力を知るためならサンプル調査でよいという意見だ。 サンプル調査でよいというのは、供給側の論理であると思う。「考える力」は国が持たねばならないものではなく、個人が持たねばならないものであるという顧客の視点で考えれば、悉皆調査であるべきだと思う。効率重視と効果重視の差である。 むしろ全学年で実施するくらいのものだと思う。ネックになるのが、採点費用である。公正を期すために、専門業者に採点を委託しているために費用がかさみ、時間も要するのである。 結果の公表を前提にしていないのに、そこまで厳密にやるというのは矛盾しているように思う。現場で採点し、次の授業時間で答え合わせをして結果を文部科学省に送り返せば、1週間もあれば集計ができると思う。 新聞記事では「入試と方向性が違う」という見出しが掲載されていたが、その先の就職試験とは方向性が一致しているのではないだろうか。 悉皆調査となると現場の負担が増えるという意見も出そうだが、それよりも試験日前後には修学旅行の日程を取ることができず、旅行産業への影響が大きそうな気がする。 PR
どうしても言いたいことがあるので、今日はもう一つ取り上げることにする。臓器移植法の改正の問題である。法が施行されてから見直すことになっていたが、そのままたなざらしにされていた。それが急遽国会で審議されることになったのは、WHOが自国での移植という勧告をすることになったためである。
子供の移植が認められない現行法では海外移植に頼るしかなく、患者を抱える親の要望が強いための法改正論議だと思う。子供の命を救いたいと思う親の気持ちはよくわかる。 しかし、臓器移植の多くは他人の死で命を救う行為であり、提供側のことも考える必要があると思う。提供を受ける側の論理だけが先行しすぎているのではないだろうか。 長く患っていた後に脳死状態になるのなら、親族も覚悟ができていようが、脳死は突然の事故によってもたらされることが多いと思う。そんな中で、意思表示ができない子供(特に幼児)の親に、臓器移植を迫る行為が許されるのだろうか。 医療技術の進歩により、“奇跡の生還”ということも起こりうると思う。奇跡にすがりたい親に移植を進める行為は、私にはできないことだ。 子供の臓器移植を認めるには社会的な合意形成が必要であり、国会での議論だけでなく、国民投票をして社会的に合意する手続が必要だと思うのだがどうだろうか。少なくとも、投票することにより、臓器移植に対する理解は深まると思う。
今日は書きたいテーマの多い日だ。昨日実施された全国一斉学力テストの問題(4月に実施して結果のフィードバックが秋になることや国語の問題に数学や理科の内容が入っていること)、取調べ中の容疑者が居眠りの隙を付いて逃亡した問題(居眠りをした19歳の巡査は前日の朝9時から勤務を続けており30時間ほどの勤務の中で1時間しか睡眠が取れなかったこと)、漢検問題(メディアの魔女狩り体質の典型)、臓器移植法の改正問題などである。
そんな中で、今日取り上げたいのは和歌山の毒入りカレー事件で、林被告の死刑が最高裁で確定したことである。 この判決に疑問が残る。自白や物的証拠がなく状況証拠だけであること、動機が解明されないままであることの2つの問題を抱えながら死刑という最も重い判決が下されたことである。 無差別大量殺人という事件の犯人に対して、死刑の判決はやむを得ないとは思う。自白の強要による弊害を考えると、状況証拠だけの判決も認めなければならないかもしれない。 しかし、動機が不明のままなら話は別だと思う。“事実”を明らかにするには5W1Hが満たされており、その中でもWhyということが最も重要だと私は思っている。何故ということが出発点ではないだろうか。この何故が明らかにされないまま、状況証拠だけで死刑の判決を下すのは問題だと思う。この事件の判決は、死刑か無罪かの両極端が問われるだけに余計そう感じざるを得ない。 「疑わしきは被告の利益」という推定無罪の原則はこの事件にはあてはまらないのだろうか。 これからはじまる裁判員制度を考えると、この事件はもう一つ問題があると思う。この事件は捜査段階でメディアの報道が過熱し、連日のように“状況証拠”が明らかにされていた。 裁判員がこのメディアによる刷り込みを排除して正しい判断ができるのか疑問が残る。 日立の「エコ冷蔵庫」の不当表示が公正取引委員会によって明らかになった。「省エネ大賞」会長賞を受賞し、半年間に30万台が売れるヒット商品に偽装があったわけだ。
昨日に続いて、競馬の話題を。昨日の皐月賞は、断然の1番人気に指示されたロジユニバースが惨敗し、強運の馬主の神通力は及ばなかった。優勝した馬と2位に入った馬はいずれも社台グループのノーザンファームの生産馬であり、さらに共同馬主クラブの馬でもある。この10数年共同馬主クラブの馬の活躍が目立つ。
一口馬主といっても、私が30年ほど前に加入した5万円という小口のものではなく、優勝した馬はその一口が150万円という高額であり、庶民の小遣いで参加できる金額ではない。 バブル崩壊以降、馬主の数は減少を続けている。長引く景気の低迷で、高価な馬を所有できる人が少なくなったことが大きな理由だが、もう一つは共同馬主クラブの隆盛があると思う。先週の桜花賞に勝った馬も、昨日の皐月賞を勝った馬も同じ共同馬主クラブの馬である。 馬主として成功するには、多くの馬を持つことが必要だといわれている。リスク分散のためである。 共同馬主クラブには二つのタイプがある。一つは口数が40口程度で、一口が50万円から200万円程度になるもので、富裕層向けのクラブである。もう一つは口数を500から1000に細分化し、一口が5万円から10万円とする庶民向けのクラブである。 残念ながら強い馬のほとんどは前者であり、後者の馬で大レースを勝つことはほとんどない。ここでも資金力のあるものの方が有利になるという経済原則が働くのである。 個人馬主では規模のメリットが追及できるほどの資金力がない人でも、前者の一口馬主では規模の追及ができるため、一人で所有するのをあきらめてクラブ会員に移ったのが馬主が減っている要因だと思う。 昨日の皐月賞の売上は昨年に比べて減ったが、入場者は増えている。今年になって行われた4つのG1レースでは、すべて入場者が増えたことになる。 競馬に限らず、このところ野球やサッカーなどのスポーツは、テレビ視聴率は振るわないものの、スタジアムでの観戦は増加傾向にある。テレビで済ませるというライトユーザーは減り、ライブで楽しむというヘビーユーザー=“濃い客”が増えるという最近の消費行動の特徴が表れていると思うのだがどうだろうか。 |
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