社長のブログです
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台風が東へ大きく逸れたのは北の高気圧の勢力が強いことの証であり、梅雨明けは少し遅れそうだ。昨日から風向きはやっかいな北東風であり、当分天気はあまりよくないだろう。
台風が去ったと思ったら、今度は地震だ。今年は能登半島でも地震があったのに続いてのことで、1年に2度もこのような大きな地震があったのは記憶にはない。それにしても、中越では3年前に長岡で地震があったばかりで、どうしてこう同じ地域でと思ってしまう。 最近の被害が出るような大きな地震は、北海道東部、宮城沖、新潟などで少しづつ場所を移動しながら発生しているような気がする。今回の地震では建物の倒壊が目立つ。亡くなった人も圧死によるものが多いので、耐震補強の重点エリアに指定して助成することはできないのだろうか。 亡くなった8人の人は、いずれも70歳以上の高齢者であり、昔からの旧い建物に住み続けていての犠牲者なのだろう。日本は昔から大きな地震が頻発し、犠牲者を多く出しているにもかかわらず、建物の耐震化は余り進んでいないのが腑に落ちないことだ。 考えてみれば、日本には住まいについての工夫というか文化というか、知恵が少し足りないような気がする。住まいは夏を快適にするということに主眼が置かれた造りで、寒さ対策はそれほどでもない。 朝鮮半島で用いられている、オンドルが日本には取り入れられていない。渡来文化を受け入れることに長けた国が、どうしてオンドルを入れなかったのか不思議でならない。 去年、吉永小百合主演の「北の零年」という映画を見た。明治の初めに、淡路島の稲田藩が大挙して北海道に移住する話だが、再現された当時の建物の様子を見るととても北海道の冬の寒さに耐えることはできないと思われた。住まいに関して防寒、防災を意識した先人の知恵はなかったのだろうか、いつも疑問に思っている。 PR
台風は、頭を押さえつけられるような感じで、日本の南岸を東へ抜けていった。北の高気圧の勢力が強かったのだろう。そのせいか、今朝は少しひんやりとしており、一挙に真夏モードとはならないかもしれない。
東京の話の続きを。太田道灌が江戸城を築いた時は、千代田村や祝田村といった寒村があるだけで、全く辺鄙な地域であった。江戸城は、武蔵野丘陵と利根川デルタの交点に位置していた。丘陵の端が山の手で、利根川デルタが下町になる。 利根川デルタは、川筋が一本ではなく、いくつもの川が支流となって湿地帯を形成しており、度々の水害に悩まされていた。家康が江戸入城して以来早速取り掛かったのが、利根川の付け替え工事であった。利根川の付け替えは江戸時代を通じて行われ、最後には銚子から太平洋へという現在の姿になった。 ほぼ同じ時期に、大阪では大和川の付け替えが行われ、大阪市内から現在の堺へと川筋を替える工事が行われた。名古屋でも長良川の改修工事が行われており、江戸時代の土木事業が、今日の3大都市形成に大きく役立ったというのは面白いことである。 家康の行った土木事業として、埋め立て事業がある。神田山の大地を削り、海に面していた江戸城の前方を埋め立てて陸地とした。今の日比谷や銀座である。明治になって、新政府が官庁街を造ろうとして、日比谷公園一帯で計画を始めたが、地盤が弱く断念し、公園になったとされている。一番深い場所であったのだろう。 江戸城の防衛を考えると、利根川デルタに囲まれたエリアは軍を動かすのには適さず、武蔵野丘陵の側への防衛線の構築が主眼となる。そのために、旗本を中心とした武家屋敷をこの地域に配置した。対照的に利根川デルタの埋め立てエリアには、町人(市民)が住むエリアとなった。山の手と下町の誕生である。 死者が10万人を超え、江戸城の天守閣も炎上した明暦の大火(振袖火事)を契機に、江戸の姿が大きく変わる。具体的には、江戸城内にあった武家屋敷や寺社を城外に出すことにより、玉突き現象を伴って江戸が膨張を始めるのである。これが現在まで続く首都東京の膨張と一極集中のスタートとなる。 続きは機会を改めて。
台風が接近してきている。日本列島を横切る今回の台風によって、水不足は一挙に解消されそうだ。台風一過で真夏モードに入るのだろう。
この数年の私の関心領域の一つが、東京への一極集中である。現在大きな問題となっている地域間格差も根源的には東京一極集中の問題に尽きるし、バブルやその崩壊もこの一極集中が大きな影響を与えている。そのため、私が主宰するCSCでも去年から東京を探訪するということをテーマに、あちこち見学をしている。 今日の日本全体の閉塞感を打破するには、一極集中をどのように変えてゆくかがキーになるような気がする。東京とは何かを考える必要があるのだが、とても1回のブログで語りつくせることではなく、何回、何十回と折に触れて考えていることを掲載していく。 そもそも東京一極集中を可能にしたのは、関東平野という日本一の平野の中心に位置し、広大な後背地を持っているからである。しかし、徳川家康が江戸に本拠地を置く以前は、鎌倉や小田原に関東を治める拠点が置かれていたのである。 当時の常識からは、辺鄙な江戸に本拠を置くことは考えられなかったと思う(武蔵の国の中心は府中であった)。狭隘な地形から、家康が鎌倉や小田原を本拠にしていたら、今日の東京一極集中は起こらなかったのではないだろうか。 家康が江戸城に入ったのは、小田原攻めの折に、秀吉が家康に薦めたという説が説が有力である。少しでも大阪から離れることや、未開の江戸を開発することにより、家康の力を削ごうとしたというような説もあるが、司馬遼太郎が再三述べているように、秀吉の善意から出たものであると解釈したい。 商品経済が中心になってきた都市経営を考えた場合、物流が重要な項目になる。道路網が未整備な当時にあって、陸上輸送と海上輸送の効率の差は歴然としている(道路が凸凹状態では、大量輸送は難渋を極めるのは当然のことで、大八車が利用されるようになったのは江戸時代の中期以降であるとされている)。 海に面することの重要性に着目した秀吉は、自身の拠点を大阪とし、家康にも薦めたのである。小田原や、鎌倉も海に面して入るが、山に囲まれ発展性に乏しいことや、鎌倉などは港も狭いということがネックになったことと思われる。 東京、大阪、名古屋を3大都市と称することがあるが、いずれも湾奥に位置し、後背地に平野を抱えていることが共通している。さらにもっというと、この3拠点は水害に悩まされ、江戸時代に大規模な河川改修を行っていることも共通している。この話の続きは又後日。 昨夜のサッカーは気持ちよく見ることができた。守りを固めてカウンター狙いに徹したカタールと違い、緒戦で敗れているUAEは勝つことが必要だったため積極的に仕掛けてきたのも幸して、前半に3点を取って勝負ありだった。
台風が今朝は沖縄付近にいるようだが、中心気圧を見るとかなり強い勢力の台風のようだ。4~5日前に比べるとかなり勢力が増えており、それだけ海面温度が高いのだろう。
釣りの魚に異変が起きていることを以前に述べたが、海水温の高さが影響しているのであろう。晩秋から初冬にかけて釣れるイナダが、今週の初めから東京湾口で釣れ始めている。それもサイズが一回り大きく、ワラサと呼んでもおかしくないようなものも釣れているようだ。 イナダの群れは、普段から東京湾を回遊しているのもいると、釣り船の船頭は言う。ただし、イワシの群れを追いかけて海面近くを泳いでいるので、トローリング(漁師は「曳き釣り」という言葉を使っている)では釣れるが、餌を付けた竿釣りではかかってこないらしい。 今のところ、東京湾口でも三浦半島からの出船で剣崎沖で釣れているようだが、私がよく行く房総半島の富浦沖とは、そう遠く離れていないので、何時群れの一部が回遊してくるかを注目している。千葉と神奈川と聞くと随分離れているような気がするし、電車での移動も結構時間がかかる(先日仕事で横須賀に出かけたが片道たっぷり2時間で大変だった)、さらに新聞の釣り欄の位置も離れているので全く別の場所だと勘違いしてしまう。 しかし、神奈川と千葉が同時に載っている地図で見ると、剣崎沖と富浦沖は至近距離にある。衆議院選挙の比例代表は、千葉と神奈川、山梨で一つのブロックを形成している。飛び地という違和感があったが、海の視点で考えると少し納得である。 昔の国の名前で上下や前後がついている地域がある。例えば、群馬県と栃木県は上野と下野であり、都(京都)に近い方を上としている。ところが唯一の例外は、房総半島の都に近い東京寄りが下総で、遠い方が上総となっている。 中世では東京のある場所は、利根川デルタに覆われており、関東全体から見ると辺鄙な場所であった。当然交通もデルタがあるため不便な場所で、ヤマトタケルの東征にも走水の話が出てくるが、三浦半島から房総半島への船便がメインルートであったようだ。そのために、海上ルートでは都に近い方を上総と呼んだようである。 視点を変えることの面白さの一つだ。 |
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