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6月4日に六本木ミッドタウン探訪の会を開く予定だ。施設の中の飲食店はどれも高く、懇親会を開くには予算的に問題がある。やむなく、ミッドタウンを至近距離で眺めることができる場所を会場にした。

六本木は20代の頃によく出かけた場所で、最初の勤め先の神谷町に近いことや、外国人と付き合うことが多かったことなどによる。外国人が多く出入りする店は、リーズナブルな価格の店が多いように思う。ネットワークが発達している彼らのメガネにかなった店は、それなりの満足感があり、参考になる。

外国人が多く出入りするようになったのは、戦後駐留軍の兵舎が六本木界隈にあり、彼らを対象とした飲食店が多くあったことによる。駐留軍の兵舎が置かれたのは、戦前の陸軍の施設を利用したためである。歩兵第一連隊の跡地が東京ミッドタウンに、第三連隊の後が新国立美術館となっている。

連隊は3個大隊で構成されており、戦時には連隊が3個で構成される師団か、二連隊の旅団として作戦に従事するが、平時において独立して活動する最少単位が連隊となっている。2000人近い兵員が居るため、施設としては広大なものとなる。

このような広大な敷地が明治初期には東京には多数存在した。大名屋敷跡である。大名屋敷は、公館に相当する上屋敷、隠居所にあたる中屋敷、別荘に相当する下屋敷の3つに分かれる。上屋敷は皇居の周辺に多く、中屋敷は外堀周辺、下屋敷は海沿いか郊外に設けられるケースが多かったようである。

第一連隊は毛利藩の支藩である長門藩の下屋敷、第三連隊は宇和島藩の上屋敷跡に置かれている。下屋敷は別荘であったため、大きな敷地を持つところが多く、青山墓地は岐阜県の郡上八幡の城主である青山氏の下屋敷であり(青山通りも由来は同じ)、新宿御苑は高遠藩の内藤氏の屋敷跡である。

地味な小大名の屋敷跡でもそれなりの規模を持っていたことに驚かされる。東京が大きく発展した背景には、膨大な大名屋敷・武家地を持っていたことが、含み資産となって働いたことが理由の一つにあると思う。
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